girl


 これ誰ですか?と彼は言った。

 彼は、僕が貸したノートの裏表紙の裏に描かれた「彼女」を指さしていた。これだから他人にノートを貸すのは嫌いなんだ。誰でもない。と僕は言った。彼は疑いの眼差しを捨てなかったが、それは紛れの無い事実だった。でも、と彼は言った。でも、この子ここにも描かれてますよね、ほら、ここにも。器用にページを手繰って、目ざとく「彼女」を見つけ彼は言う。下手な人間が顔を描くと、自然と似かよるものなんだよ。と僕は言う。そして、これは嘘だった。事実はその逆である。才能の無い人間に、1度形になったあるイメージをもう1度描くことなんてできやしないのだ。

 僕は「彼女」を何年も前から知っている。家に帰り部屋に入ると、僕は高校の頃のノートをひっぱりだした。「彼女」はいたるところに顔を見せていた。見せる表情は全て異なる。けど、それは異なった表情を描いていたせいではない。僕は「彼女」のたった1つの表情を描こうと常に努力しているのだ。けどその努力は徒労に終わる。表情は時に和らぎ、時に歪む。僕が、僕の描こうとした「彼女」の表情を描ききったことは、1度しかない。まどろみの昼下がり。英語、リーダーのノート。僕は何かにとり付かれたかのように、「彼女」を描きはじめた。それまで断片的でしかなかった「彼女」の像が、一瞬合わさった気がしたのだ。終業の鐘が鳴るまでの、ただの12分で画は完成していた。高校1年の11月の真ん中。

 たった1度、「彼女」に会ったことがある。僕は誰かに追われていた。脇に辞書を抱えている。バイパスの歩道橋の上で追い詰められた。眼下では何事も無いように車が通り過ぎている。殺される。本能的に僕はそう感じる。やれやれ、こんなところで、誰に知られることなく死んで行くのか。僕は辞書を足元に置き、両手を挙げた。前から敵が近づいてくる、背後から近づいてくる気配もある。何処も見たくなかった。けど眼を閉じることもできなかった。ふと気付いた。眼下。バイパスの歩道に「彼女」がいた。彼女の視線と僕の視線が交わる。「彼女」は僕を見ている。確かに見ている。その表情は、同情でも、憐憫でも、恐怖でもなかった。彼女の唇が動いた。白い歯が僅かに覗く。そうか、「彼女」は微笑っているんだ。無意識につぶやいていた。さよなら。そこで、目が醒めた。僕は洗面所に向い、すぐに涙の跡を洗い流した。大学2年の11月の終わり。

 でも、何処かで見たことある気がするんです。と彼は言った。何処だろう?

 リーダーのノートが見つかった。高校生最後の春休みに部屋を大掃除したとき以来の対面だった。乱雑な日本語訳文の隣に「彼女」はいた。そうか、「彼女」は微笑っていたんだ。後輩から奪い取るように持ち去ったノートを開く。目も当てられない。僕は一体この5年間何を描いてきたというんだ? これでは、まるで死体だ。まるで……、ふと、僕は思い出した。死体になった自分と、微笑んで僕を看取った「彼女」。今、僕は生きているし、「彼女」の目は、表情の全ては死んでいる。疑念が頭を掠める。何故僕は「彼女」を殺したのだろう? 何故僕は「彼女」を殺さなくてはならなかったのだろう? 何かがつながりそうな気がした。断片を僕は手繰り寄せる。断片が重なって行く。5年前の昼下がりのように。

 でも、何処かで見たことある気がするんです。と彼は言った。それは当然のことだと、今更気がついた。深く、溜め息をついて、僕は両手を挙げる。後になって気付くことが余りに多過ぎる。僕は洗面所に向った。大学3年の11月の初め。



as-K/2001