林檎


 まるで異国の山奥を覆い尽くした霧のように深い眠りと眠りの間に、迷子Sは短い夢を見ました。深い眠りを経て、朝目が覚めた迷子Sはその夢の断片を思い出そうと試みました。けど巧くいきません。余りに久し振りに見た夢だったし、よくよく考えれば考えるほど、それが夢だったのか、それとも過去の迷子的記憶だったのか、分からなくなっていくのです。そうして迷子Sは考えることを止め、すばやく荷物をまとめ背負い、アパートから歩き始めました。

 どうやらこの街も彼が求めている場所ではなかったようです。これが彼にとって7つ目の街でした。彼は1年間、迷子的放浪を続けていたのです。目的地という目的地も無く彼は街から街へさまよい続けました。荷物は重く、季節は厳しさを増していきました。けど彼は当ての無い迷子的歩行を続けました。歩き続けるうちに肩に食いこむ荷物の重みも、段々深みを増してくる冬の気配も苦痛ではなくなってきました。迷子的順応、と彼は思いました。彼にとってそれは最早重みではないし、寒さではない。むしろ元々そこにあったものとして、彼はそれらを受け入れていました。

 街を出るためにバス停でバスを待っていると1人の女性が彼に声をかけました。「こんにちは」と彼女は言い、迷子Sは小さな声で「こんにちは」と返しました。「何処に行くの?」と彼女が聞くと彼は、さぁ、と声には出さず、首を軽くふって応えました。ふぅん、と彼女も何も言わず、首を軽く縦に振って相槌をうちました。それから暫く沈黙が走りました。けどそれは重みのある沈黙ではありません。それはあるべくしてある迷子的沈黙のように迷子Sには思えました。

 ふと、林檎、と彼女は言いました。「林檎?」と迷子Sが聞き返し振り向くと、彼女は手のひらに丸々とした真っ赤な林檎を乗せて、彼に向けて微笑んでいました。ありがとう、と彼は呟き、その林檎を受け取りました。「故郷から送ってきたの。ここよりずっと北の方よ。」彼は、へぇ、と頷き、その赤い果実に視線を向けました。「けどもう戻らないんだね。」と彼は言いました。「そう、戻れない。」と彼女は言いました。迷子的故郷、と迷子Sは思いました。それから彼女は彼に名前を尋ねました。迷子S、と名乗ると、彼女は、迷子アイ、と短く言いました。「迷子i ?」「そう、英語の i 。」彼女は言いました。

 迷子Sが林檎を鞄の中に入れようとすると、迷子i はその果実を入れようとする彼の手を止めました。「そんな荷物に林檎混ぜたら、つぶれちゃうよ。」見れば彼の鞄はいっぱいで、その大ぶりの林檎が入る隙間はありません。そうだね、と彼が曖昧に笑うと、彼女は鞄を彼から受け取り、それを背負いました。一瞬顔をしかめ、それから彼女は鞄を下ろしました。「ちょっと中身見ていい?」と彼女は言いました。いいよ、と彼は短く答えました。

 「ねぇ、どうしてこんなに荷物が多いの?」と彼女は迷子Sの荷物を暫く整理してから言いました。「何時の間に増えていたんだ。」と彼は言いました。「<何時の間に>?」と彼女は繰り返しそれから尋ねました。「地図は何処にあるの?」ない、と彼が答えると彼女は飽きれたように首を振っていいました。「街を出よう、という時に地図の1つも持たないの?」少し首を傾げてから彼は「必要無いと思ったんだ。」と言いました。彼女はそれを聞いて少し間を置き、深呼吸をしました。「初めて会う迷子にこんなこと言いたくはないんだけど」と前置きしてから彼女は言いました。「不必要なものを沢山抱えてるのに、本当に必要なものをあなたはなにひとつ持ってないのね。」彼女は彼の鞄を整理してできた僅かな隙間を迷子Sに示しました。彼はその隙間に林檎をそっと乗せました。「またひとつ荷物が増えたね。」と彼女は言いました。そうだね、と彼は答えました。それから再び迷子的沈黙が彼等の間にやってきました。

 例えば何が僕に必要なんだろう?と思い出したように迷子Sは言いました。迷子i はたぶん、と前置きして溜め息を1つしてから言いました。「あなたが今まで捨てたものの中にそれはあるのよ。」僕は何も捨ててない。と彼は言いました。けどその言葉は彼女の耳には届いていないようでした。「例えば、2人の迷子とかね。」彼女は遠くを見ながらそう言いました。2人の迷子。彼は黙ってその言葉を頭の中で反芻しました。「荷物の奥にあなたの<後悔>を見付けたのよ。あなたの過去まで覗くつもりはなかったんだけど。」いいよ、と彼は呟きました。「けど僕は彼らを捨ててなんかいない。」と迷子Sは言いました。「捨てたのよ。」と迷子i は返しました。「そのことをあなたは理解ってるはずよ?そして、あなたが今そう感じている通り、あなたはそうするべきではなかったのよ。」迷子Sはうつむいたまま、鞄の入り口から顔を見せている赤い果実に手を伸ばし、それを齧りました。シャクリ、と音がして、それからまた迷子的沈黙が訪れました。

 「猫を探すのよ。」と迷子i は言いました。「猫?」そう、猫、と彼女は言いました。「だってあなた今朝、猫の夢を見たじゃない?思い出せない?」分からない、と彼はうつむきました。しかし同時に、何かが頭の奥でひっかかっているのが彼には理解りました。「わたしが見たあなたの<後悔>は<夢>と背中合わせだったの。」と彼女は言いました。「つまり<後悔>を解く鍵は<夢>にあるのよ。」その言葉で彼は頭の中で何かが弾けたような感触を覚えました。そう、確かに僕は今朝、猫の夢を見た。



 それは彼が今日見た夢の光景であり、また彼が確かに見た、昔の光景でもありました。寒い夜、迷子Sは迷子Pと、迷子Rと寝袋を寄せ合いながら眠っていると寝袋のひとつが震えているのを感じました。3人が目覚めて見てみると、1匹の小さくてしっぽの大きい、茶色い猫が迷子Rの寝袋の隙間に潜り込もうとしていました。小さな迷子Rは、入り口を緩めてその猫を自分の大きな寝袋に招きました。猫は顔を出して迷子Rの隣に寄り添い、そのまま眠りにつこうとしました。暖かい、と彼女は―迷子Rは―言いました。猫はにゃぁ、と短く鳴きました。迷子的温もりを感じながら、迷子Rは、そして猫と2人は心地良い眠りに落ちたのでした。

 けど翌朝には猫は姿を消していました。迷子Rはすんすんと泣き、迷子Sは、きっと猫は帰る場所があったんだよ。と言って彼女をなだめました。けど彼女は首を振って言いました。帰る場所なんて猫にはなかったんだよ。だってここが帰る場所だったんだから。それから彼女は感情を抑えながら、そっと言いました。だけどね、名前をつけてあげなかったから逃げちゃったんだよ。名前をつけてあげれば、きっと、ずっとみんな一緒だったのに。



 ちょっと荷物見てて、と迷子i に言ってから迷子Sは走り出しました。彼の中には迷子的予感のようなものがありました。バス停からの一本道、彼は延々走り続けました。今を逃したら、2度と何も戻ってこない。そんな予感があったのです。これが最後のチャンスなのよ、と迷子i の声が聞えた気がふとしました。あなたが見た<夢>は、きっとその迷子的証明なの。あなたもそうだと気付いてるはずよ。

 彼が迷わずに辿り付いたのは彼がついさっきひきはらったアパートでした。彼は自分の部屋―かつて自分の部屋だった空室―の扉を開けました。すると、そこには一匹の小さな茶色い猫がいたのです。目をこすって、もう1度しっかり見ても、確かにそこには猫はいました。間違いない。特徴のあるしっぽが横に震えるのを見ながら、迷子Sは段々自分の目が熱く、熱くなるのを感じました。気がつけば涙がこぼれていました。ねぇ、僕は君たちにもう1度逢いたい。と彼は強く強く思いました。そして、もう2度と離れたくない。

 ―名前をつけてあげれば、ずっと一緒だったのに。―彼女の言葉が頭を木霊しました。そうだ。と思いなおし、彼は猫に名前を与えることにしました。逃がさないように猫を抱えながら、幾つかの名前を彼は思い描いては消しました。そしてふと、1つの名前が何かの暗示のように浮かびました。それは或いはかつて自分が無くしたものの名前だったようにも思え、或いはそれは今朝みた夢と夢の間の深い眠りの中で見付けた名前のようにも思えました。彼はそっと猫を呼びました。アイ。猫は彼の顔を見つめ、暫く何か考える素振りをしてから、にゃぁ、と短く鳴きました。お帰り、アイ。涙声で彼は言いました。

 この街に留まろう、と迷子Sは決心しました。猫は帰ってきた。後は彼らを待つだけだ、と彼は思いました。きっと近いうちに彼らはこの街に辿り付くだろう。その前に僕は、彼らの居場所をつくってあげないといけないんだ。そうすれば何時かアパートの扉をノックする音が眠り続けていた僕の目を覚ますだろう。それから僕は息を吸い込んで、扉をそっと開けてこう言うんだ。お帰り。そして、ただいま。



as-K/2002