おやじの世界にようこそ!

この世界は、おやじの目から見た世相をひとりよがりに綴ってみたい。

 

その1:おやじ

このおやじという言葉は、自分が親父に対して使うものだと思っていたが、自分に対して使われるようになると思っていなかった。 子供が自分より体力的に強くなると、「おい、おやじ」と呼ぶようになる。そのうち、女房までが、「おやじ」と呼ぶようになる。このおやじという言葉は、そのうち、アフターファイブに居酒屋に行き、焼き鳥と焼酎をあおり、休日には、ゴルフや競馬場に足を運ぶようになった女性に対しても使われるようになる。

いわゆる、おやじぎゃるや、おやじおばんである。

おやじという言葉は、「自分に対しては使わないと思っている人に、知らぬ間に当てはまるような言葉」である。

 

その2:憲法9

今日は、憲法記念日。

戦争放棄を唱えることは大事である。

戦争を、「自国の利益のために、他国へ派兵し、他国民を殺傷し、他国の資産を破壊すること」と定義する。

ただ戦争を開始するときの理由は、そういうことをぼかして始める。 他国を帝国主義や独裁主義から解放するとか、世界の平和維持のために、危険な指導者を失墜させるとか、大義名分で始められるから、始末が悪い。

ただ、他国が攻めてきたときに、戦うことは戦争とは呼ばないし、降伏することを戦争放棄とも呼ばない。

外国の軍隊が日本を攻めてきた時、防衛する軍隊を持つことは必要と考える。 自衛隊は、国防軍としての機能を果すべきと考える。

このような視点に立つと、憲法9条の改正は必要であろう。 更に、若者は社会に出る前に、軍事教練を経験することは必要であろう。 防衛軍としていつでも参加できるように訓練することである。

いまどき、他国から兵隊が押し寄せて、日本を制圧することなどないという意見もある。

そんな寝物語のために、防衛予算をかけて、自衛隊を拡張する必要はないと説く。 

確かに、そうあって欲しくないと願う。ただ、いざというときに備えておくのが、国家であろう。

とすると、今までどおりに、日米安保を維持し、米国の軍事力の傘のもとで、平和を維持するか、自国の面倒は自国が見ることで、国防軍を備えるかの選択になる。

前者は、米軍基地にかかわる諸問題を今後も引きずることになるし、後者は、国民の自力独立心がないと踏み切れない選択である。

もう一つの選択は、いかなる戦争(上の定義に、自衛のための戦争を含める)も放棄し、現在の軍隊である自衛隊を解散し、侵略に対し平和的解決を行なう。そんなことが通用するか分からないが、国連なり、米国なりにお助け願う策である。

最悪の場合、属国になることをも覚悟する決意が必要となる。

 

その3: 戦争と平和

老子曰く、兵(兵隊であり武器である)は不祥の器なり。

まさしく、兵を用いて戦うと、勝っても負けても、血を流すことになる。 国を隔てて、昨日の友人が今日の敵となる。 武器は、たとえ防衛であっても、とどまることを知らない。 仮想敵国の武力が増強されていると判断すれば、増強せざるを得ない。 敵国がミサイル攻撃すると判断すれば、迎撃ミサイルを配備しなければならない。

いまや、軍事衛星からの情報獲得が、戦争の勝敗を決めるという。 つまり、IT技術が抑止力になる。

権力者にとって、戦争開始する口実のために国民を操作することはたやすかった。 国家平和のため、国際平和のために、世界大戦は起こった。 そして、宗教や民族の自立のために今も戦争は続けられている。

戦争は、人間が行なう以上、過剰な不安あるいは憎しみを煽って、継続させる。 IT技術は、情報の公開性を促進し、国家による情報操作を抑止する点で、平和のための武器となる。 他方、ITを使って、虐殺シーンを流すことで、国民の憎しみを煽る道具としても扱われる。

つまり、戦争は、何らかの意味で、国民が国家の情報操作や思想操作で扇動されて引き起こされる悲劇である。

その2で述べたように、自国の防衛のために軍隊を持つべきといったが、これは、国民の自発的な意識に基づかねばならない。 国民が、暴力(武器)を用いて戦うことを放棄し、非暴力主義に徹するならば、自衛隊を解散し軍事力を持たないことである。 今の憲法9条は、そこが非常にあいまいな表現になっている。

もし、日本国土が侵略を受けたとき、国家の独立のために戦う意思があるならば、自衛隊を国防軍として明確に宣言すべきと考える。

平和とは何か? をあらためて問い直す必要がある。

基本的には、自由にモノが言え、もめごとは、話し合いで解決できる状態にあると考える。

そういう状態を破壊する権力に対しては、武器をもって戦うことは、人間の生存の基盤のように思われる。

もちろん、国際社会に訴えて、助けを請うこともできるが、まずは、自分の面倒は自分で見るのが最低限の対応である。

誰が何のために誰と戦うのか、を国家に情報操作されることなく認識することが、国民の戦争抑止力となる。

平和を何となく享受するのではなく、平和はどのようにして獲得されているかを認識することが大切だと思う。

 

その4: ADSL

ADSL (asymmetric digital subcriber line)だそうで、データを貰う速度とデータを送る速度が異なるので、asymmetricつまり「非対称」が頭についている。

電話線が一本あれば、電話をかけながら、PCでインターネットができる。

高速接続なので、CATV(ケーブル)と並んで、ブロードバンドの有力候補になっている。

自分も最初、YAHOO BBに申し込みし、手続き上のトラブルからACCAに乗り換え、今は開通している。ブロードバンドは、広帯域通信網のことで、高速で大容量の情報を送受信できるアクセス回線で定義される。

ADSLは、最近の新聞で加入者が130万人を越え、IT社会への移行が急速に早まっているという。接続費用もプロバイダー料を入れて3000円台と、世界でも一番安いレベルとなっている。

実際に使っている側からして、ISDNとは比較にならない程の高速である。

徒歩からスポーツカーに乗ったような感じで、メールのダウンロードは一瞬、画像ファイルも数秒で行なえる。アップロードの方も、10倍になっていて、HPを作るとき重宝している。

高速になると、PCの性能も高速(1GHz以上)が欲しくなるし、液晶画面も欲しくなるし、オーディオもつけたくなる。こういう欲望が、IT産業を活性化させるのだろう。

家電も情報家電に移り、PCが机の上にあるのではなく、家電のなかに埋め込まれるようになる。

ADSLは、本当のインターネット社会への移行の入口といえるのでないか。

そのとき、フツーの人でも簡単にADSLがやれるような援助が欲しい。

私のような理科系の人間では、機械を壊してまでも自分でやりたい人間は、意外に簡単じゃないと思ったりするが、PCが苦手な人間でも簡単にが、欲しい。

何がわからないって、一番わかりにくいのが、モデムをもらってつなげて(ここまでは簡単)、PCのセットをするところじゃなかろうか。

PCセットアップをお金を払ってやってもらえるが、こんなものは、最初からPCのソフトに組み込むべきだ。LANカードを入れるのも結構大変だった。

私のばあい、SLOTの位置によっては、カードは入るが、イーサネットコードが入らず、往生した。

こんなもの最初から、PCにいれておくべきである。

自分の場合一番苦労したのは、モデムにADSL信号が来てなかったことである。

大きな問題は、ACCAとNTTとのコミュニケーション不足である。

ACCAは、工事完了予定日をお客の私に連絡し、NTTはACCAの工事依頼をそのまま放置していた。結局、お客の私が、NTTに電話をして工事を至急進めるように催促した。

そうしたら驚くなかれ、翌日の朝に工事は完了していた。

ここが一番大きな問題で、そのまま何もしていなかったら、ずうっと工事されなかったようである。

開通してもしていなくても、ACCAからは何も連絡ない。

お客から便り(クレーム)のないのはよい知らせとでも思っているのか。

不思議なのは、お客の開通をどうチェックしているのか。

もちろん、直接ADSL契約しているASAHI-NETからは何も連絡がない。

開通日をいつに決め、いつから課金する積りか?

このようにダイアルアップと違って、ADSLにはいい加減さが目立つ。

ダイアルアップの場合は、接続時間がプロバイダーにカウントされて課金された。

常時接続のADSLでは、頃合を見て課金されるのか。

ISDNを使っていないネットユーザーで高速接続を希望しているなら、ADSLを始めるに越したことは無い。もちろん、アナログでメールのダウンロードをするだけなら、ADSLにする必要は無い。

ネットサーフィンするときは、サイトがブロードバンドにあわせて重くなってくるので、高速大容量に対応しないとアクセスはつらくなる。

 

その5 男と女

人生50年近くやってきて、男と女の違いを何度も考えさせられてきた。

男の習性を知り尽くした女なら、男ほど簡単な動物はないと思われるかもしれない。

男は、ロマンがあり夢があり、言葉の表現が苦手である。

議論で結論を決めようとすると、女には勝てない。

口でうまく言えないから手が出てしまう。

今でいうところのドメステック・バイオレンスDV)である。

手を出すことは、理性の否定であるといわれれば、無言になるしかない。

男は馬鹿ではない。

もちろん、現実を見る。

少しでも女に楽をさせたいと思っている。

楽をさせたいためにジタバタする。もがく。

そんな男に声をかけてやって欲しい。

「好きなことを思う存分やりなさい。

そのかわり、とことん夢を実現するように行動してね。」

大体が、夢を否定されることから、いがみあいが始まる。

夢を失った男ほど、情けない後姿はない。

たとえ夢が実現されなくても、夢に向かって走る姿ほどかっこいいものはない。

つれあいの男をけなすなら、とっとと別れた方がよい。

夢を共有できないほど、悲劇的な夫婦はない。

悲劇を見るのは夫婦だけでなく、家族皆が見る。

どんなに貧しくたって、おやじが生き生きとした顔を見ていれば、

家の中がぱあっと明るくなるだろう。

 

その6 働かなくてもよい社会

2002年新年早々、救われた言葉があった。

脳研究者の養老孟司さんの言葉である。

この言葉は次のような話のつながりで出てきた。

人類は、資源枯渇でではなく、ゴミで滅びる可能性がある。

→供給過多なのに、これ以上モノを作ってどうするのか。

→生産性の向上によって、20人でやっていたことが1人でできるようになったから、あとの19人は遊んでいてもよい。

→働かないと食えないというが、家や車が買えないだけで、食い物がないわけでない。

→働かなくてもよい社会のありかたを考えるべきである。

 

養老さんの最後の言葉がまたよい。

抜粋すると、「自分はどんな生き方をしたいのか、脳で考えるのはなく、体で感じて謙虚に生きる方法を取り戻さないといけない」となる。

働くことが生きるためならば、こんな窮屈なことはない。

働かなくても生きることができるならば、そっちの方がずっと自然である。

これって、まさしく老子の無為の考えに近い。

脳の中の知でああだこうだと思いをめぐらさずに、体で感じたものを体で理解する。

知は脳から、体全体に行き渡る。

働かなくてもよい社会とは、働いていることに働いている人が気が付かない社会のように思える。

好きなことをしていても、ちゃんと飯が食える社会ともいえる。

 

その7 遺言

生きている間に、自分が死んだ後の葬式のやり方や持ち物の処理方法を、残した家族に文章で託することを遺言という。

人間いつ死ぬかわからないので、へそくりの場所も含めて資産の処遇を自分で決めておくのは大切なことであろう。 ただ自分の希望と、実際に決まる処遇は一致しないかも知れない。

でも一応自分はこう思っていたということを伝えるだけでも、友人・家族へのメッセージとしての体はなす。

資産はそうないので、死んだあとの遺体の処理方法だけは希望を述べておきたい。

普通に火葬することは一応法律で決まっているから避けられない。

葬式は、宗教に入っていないので、何式になるかわからない。

何式でも何でもよく、冥福を祈ってもらえばありがたい話である。

火葬にした後の遺骨は水に流すか、風の中にまいてもらうことを希望する。

どっかの土に埋めてもらってもよい。

骨壷に入れられて窮屈な思いをするのがたまらない。

(死後の世界を信じているわけではなく、本当の自然の中に帰りたいという思いがある)

墓を作るとそこに行かなければならない。

自分の肉親の例でいっても、なかなか墓参りに行くチャンスがない。

海や川に流せば、海に流れていくので、そこが自分の墓場になる。

海の水はやがて水蒸気となって雨になるから、雨が自分の墓場になろう。

風の中に飛ばされれば、空が自分の墓場になる。

そうすれば、拝む場所はどこでもよい。

川や海はつまるところ繋がっているので、水を見てそこに向かって拝めばよい。

死んだらいずれ忘れられるから、そんな墓場のことも気にしなくよいのかも知れない。

でも後の人のことを考えれば、どこでも墓参りができるのが一番便利である。

最近、ネット墓場というのがあるらしい。

URLにアクセスすれば、故人の写真と位牌と生前の行いなどが見られるサイトになっている。

こんなサイトがあれば、PCがにわか仏壇になって、故人を拝めるのである。

ハードとしての遺骨は、もう自然に帰すしかないのである。

 

その8 SMの世界

SMといっても、SAINT MARY(聖母マリア)の略ではない。

世にいうS(サド)とM(マゾ)の世界である。

かび臭い言葉でいえば、裏窓の世界である。

Sは、他人を痛めつけることで性欲が満たされる人種。

Mは、他人から痛めつけられることで性欲が満たされる人種。

どちらも、自分と他人の間で関係が成り立つが、あくまでも自分を中心とした世界が成り立っている。

しかし、普通の人間だったら、SとMの両方の性格を兼ね備えている。

状況によって、SとMをうまく使い分けることができる。

Mの気持ちを理解しないと、本物のSになれず、Sの気持ちを理解しないと、本物のMになれない。

ゲームの世界において、SMは成り立っている。

つまり、SM変換の限度を知っていることが大切である。

Sが突然Mに変わったり、Mが突然Sに変わったりする前に、行為を止める(抑える)限度である。

まず、SMとの出会いから話を始める。

子供のころ、興味本位に、エロ本の一つで、「裏窓」とかいう雑誌を古本屋で買ったことがあった。

緊縛の写真や、その方面の小説が載っていたり、同じ趣味の仲間募集が載っていた。

はっきり言って、何が面白いのだろうという感じだった。

Sの男が、ゲームを知らない女を痛めつけているとしか見えなかった。

Mの女の性の悦びが見えなかった。(子供の目には)

青年のころになると、ピンク映画がはやり、その中でSMちっくなストーリーの映画もあった。

どちらかというとワンパターン的な展開のものが多かったように思う。

中でも、武智鉄二(故人)監督の「白日夢」(1964、松竹、路加奈子・石浜朗)は絶品だったように思う。

(この頃、年齢上の制限で映画館には入れず、映画批評とシナリオで中身を想像した)

武智監督は、1981に佐藤慶・愛染恭子を起用して、リメークしているが、観ていないので出来は不明。

「O嬢物語」とか、「家畜人ヤプー」なんていう小説も話題になったことがある。(ただ読む気はしなかった)

会社に入ると、日常生活でも、SMの世界は大小の差はあっても見え隠れする。

別に鞭で叩かれなくても、精神的に痛めつけられる。

会社の上司と部下の関係で、言葉でSMの世界を体験することがある。

Sに徹する上司と、Mになりきれない部下の間では、軋轢が大きくなり、部下の方はストレスで身体を悪くする。

横でそういう場面を見たことがあるが、最初、Sの上司は教育的配慮で厳しくあたっているのかと思ったが、

そうではなく、言葉や所作でいたぶることを喜んでいるかのようである。

部下の方も素直に折れてMに徹すれば、攻撃が弱まるのに、折れないために、これでもかという目に合わされる。

会社のSMゲームは、ゲームに終わらず行き着くところまでいってしまう感があった。

部下が突然Sになり、上司に攻撃を加えるか、はたまた根を上げて、配置転換を願うかである。

とにかく、SMの世界は、限度が大切で、越えたと思ったときは意志表示をしなければいけないと思った。

本当は、Sのご主人様は、Mが意志表示をしなくてもMの気持ちをわかってあげなくてはいけない。

Mの奴隷は、Sの攻撃を暴走させないように、限界の信号をSに送らなければいけない。

こんなことを書いている自分は、ゲームの体験はないが、ゲームとしての面白さは十分あると認識している。

しかし悲しいかな、SとMがうまく合うカップルもまた少ないのではないかと思っている。

 

その9 携帯電話

今や、20代以下の人口の60%以上が持っている携帯電話である。

電車にのれば、じっと携帯電話を見つめる人、一生懸命キーを打っている人を必ず見かける。

現代人になくてはならない必需品のように言われ、デジタルカメラまで付いている携帯まで出てくるようになった。

この携帯電話の必要を感じない自分は特別な存在なのかと思ってしまう。

恐らく買っても、かける所もかける人もそれほど多くないので、ポケットにいれて持ち歩く手間と維持費を考えると、持つ価値がないと判断しているだけだと思う。おそらく、公衆電話が全くなくなり、街で電話へのアクセスができなくなる頃には、携帯を持っているかもしれない。

アウトドアを楽しんだり、家にいることが殆ど無い人には、確かに必需品だろう。

直に連絡が取れ、今観ている映像を送れるので、その人にとっては、ライフラインともいえよう。

自分は、声が大きいので、携帯に向って大声で話すことに抵抗を感じていることもある。

そんなこんなで携帯はまだもっていない。

ただ、電話会社は、携帯を中高年(40代以上とあった)に持たせるように、フォントを大きくしたり、キーを大きくしたりするとめるまがに書いてあった。それもそうだが、維持費を安くすることがなりよりも必要に思われる。

 

その10 魚肉ソーセージ

yahooのニュースで感慨深いニュースを見た。
魚肉ソーセージのニュースである。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030209-00000501-yom-bus_all

1952年に誕生して50歳を迎え、自分の人生とともに歩いてきた商品だったのだ。

年末に正月商品とともに、マルハの魚肉ソーセージの半ダース束になったのを買った。

魚肉ソーセージは、今の若者はあまり好きでないかも知れない。

そもそもピンク色していて、防腐剤なんかが入っていて、魚らしくなく、ハムと違ってサンドイッチにも挟めない。

我々の年代は、おやつとして魚肉ソーセージを食べ、サラダのトッピングとして魚肉ソーセージを食べた。

シリコンバレーに駐在していたときは、日本食品店で、賞味期限切れの魚肉ソーセージを買って、ビールのつまみにした思い出がある。

あの懐かしい味を、自分の人生から切り離すことはできない。

魚肉ソーセージを生れたときから食った記憶はないが、もの心ついてからは、好物の一つになった。

おやつ感覚で食べられる。

自分の子供は高度経済成長後の子供だから、ソーセージは本物の豚肉のソーセージの事だと思って、

魚肉はげて物と思っている。

食べると病みつきになる食感なのに。

この生誕50年の魚肉ソーセージの50周年記念商品を、日本水産が来月発売するそうだ。

高齢化社会に備えて、魚肉ソーセージの販売を今後も続けて欲しい。

スーパーの売り場では、隅っこの方に控えめに陳列されている。

魚の嫌いな次世代の子供にも、マヨネーズをつけると格別の味になることを分かって欲しい。

 

2003.2.09更新)