老子小話 VOL 877 (2017.09.02配信)

飛鳥之景未嘗動也。

(荘子、天下篇第三十三)

 

飛鳥の景(かげ)はいまだかつて動かざるなり。

 

今回は荘子の哲学的な言葉です。

「飛ぶ鳥の影が動いたことはいまだ一度もない。」

飛ぶ鳥の運動に従って、地上の影も動くはず。

と考えれば、何とも不思議な言葉です。

しかし荘子は、鳥は動くが影は止まっているという。

影は鳥の体が光線をさえぎることでできるので、

ある時刻に対応して、鳥の位置に対応した影は

ひとつに決まり、その影は動かない。

少し時間が経つと鳥は移動し、別の位置に動く。

その位置に対応した影が生まれる。

人の眼は影を見て、以前の影と新たな影の間を

脳の中で埋め、影が動いたものと解釈する。

従って、影は被写体の位置を表わす静止像であり、

動くと判断するのは、影を被写体(鳥)と同一視して、

影を見て被写体の運動を推察する人間の方です。

小難しくいうとこうなりますが、日常の生活でも

同じ事をやっています。

アニメは、一こまの静止画を短い間隔でつなげていき、

脳でその間の画像を補完して連続した動きを見ます。

人間の頭は、時間的に連続したものを処理できず、

時間を止めてから処理します。

野球で速球を打つために、ボールの動きを頭の中で

止めてそこにバットを持っていきます。

ボールが止まって見えるので、遅れずに打てるわけです。

飛ぶ鳥を今生きている自分と考えると、地上に写される

影は過去の自分になるかもしれません。

自分の影(過去)を見て、自分が生きていることを知る。

影ができなかったら、自分は幽霊になってしまう。

影が自分自身で動いたことは一度もない。

影は自分以外の何物でもない。

影をつなぎ合わせて、自分の生い立ちがわかる。

生きている実感というのも、運動している自分には

よくわからず、アニメのように静止画をつなげて

始めてやっと味わえるようなものかもしれません。

荘子の言葉から、生の実感にまで思いをはせました。

 

有無相生

 

 

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