老子小話 VOL 859 (2017.04.29配信)

今、小しく非を為さば

則ち知りてこれを非とし、

大いに非を為して国を攻むれば

則ち非とするも知らず、

従いてこれを誉めて

これを義と謂う。

(墨子、非攻篇)

 

5月連休が始まりました。

わたしのようにいつでも休める境遇になると、

連休中には働きに出て、混雑が終わった頃に

休みをとろうと考えるようになります。

今回は墨子の言葉を借ります。

世の中に横行している正義に疑問を投げかける

言葉です。

人を一人、二人と殺す場合は、殺人罪が適用され

死刑になり、非を問われます。

ところが国家が他国を攻撃して多数の死者が出ても

非は問われず、正義を貫いたと賞賛される。

広島長崎への原爆投下は、その必要がなかったにも

かかわらず、戦争の早期終結を義として、非は問われない。

何万人を一度に殺しても、非は問われない。

最近では、テロリストの隠れ家を爆撃したつもりが、

誤爆して民間人が100人近く死のうが、テロ撲滅という

義のもと、非は問われない。

国家の犯罪は戦いに負けたときに問われるのは、

極東軍事裁判で明らかである。

北朝鮮が核兵器で武装するのは当たり前で、

核の抑止力でアメリカの攻撃を防いでいる。

これは日本の論理と同じである。

日本と北朝鮮の違いは、自国で核兵器を開発するか、

他国の核の傘を利用するかの違いである。

北朝鮮を攻撃すればその反撃として核使用の可能性を

否定できず、その怖れがあるため、手が付けられない

状況にある。

核の力を借りることは、核攻撃を受ける覚悟を前提に

する。日本にどれだけの核シェルターがあるのか。

それを知っている人は誰もいない。

墨子は、個人の犯罪も国家の犯罪も、規模の違いだけで

義はどこにもないと考える。

国家の犯罪を自分に関係ないと許してしまう個人もまた

大きな犯罪を犯していると墨子はいう。

ユダヤ人大量虐殺の罪は、ヒットラーにあるだけでなく、

それを許したドイツ国民にあるという。

墨子の言葉は、ポピュリズムのまやかしを許さない。

 

有無相生

 

 

戻る