老子小話 VOL 844 (2017.01.14配信)

現代人は事実を好むが、

事実に伴う情操は切棄てる習慣がある。

切棄てなければならない程

世間が切迫しているから仕方がない。

(夏目漱石、「三四郎」)

 

今回の言葉は、「三四郎」からです。

スマホでネットにアクセスすれば、

うんざりするほどのニュースで溢れている。

100年前の漱石がネット社会を予言していたか

わからないが、現代人の習性を見抜いている。

漱石は新聞の社会記事の大半は悲劇だが、

悲劇を悲劇として味わう余裕がないという。

国内では交通事故、心中事件、殺人事件、

火事や地震の被災状況が溢れ、海外では、

戦争やテロ、貧困が溢れている。

世の中は目まぐるしく動くのだから、

事実にいちいち感情で反応していたら、

精神が疲弊してしまう。

漱石の時代と現代の違いは、新聞かネットの

違いだけで、人の習性は変わらない。

今回の言葉が出てくるはるか前に、観音様の前で

施しを求める乞食に金をめぐむか否か、

三四郎たちが語るシーンがある。

観音様の前はせわしく動くから、めぐまずに過ぎる。

別に自分がめぐまなくても他の誰かがやると

考えるからである。

広田先生は「場所が悪いから」という。

山の上の寂しい場所で乞食に会えば、感情が

動かされ、めぐみを与えると考える。

しかし、「そんな場所では一日待っても誰も

通らないかもしれない」と野々宮さんは笑う。

このシーンと今回の言葉を合わせて考えると、

せわしく動いているのは、世の中ではなく、

自分のこころということになる。

情操はこころの反応だから、自分のこころが

慌てていれば、感情を伴わずに事実を見るだけ

で終わってしまう。

こころを落ち着く場所に持っていけば、情操は

戻ってくる。

感情を切り捨てるのを忙しい世間のせいにする人を

露悪家と名づけ、漱石は現代人の習性を肯定する。

露悪家の利己主義が世間に溢れると、不便を感じ、

露悪家は利他主義に転じ、偽善家が増えてくると

利己主義に戻ると漱石は予言する。

利己だけでも利他だけでも世間は住みづらい。

 

有無相生

 

 

戻る