老子小話 VOL 838 (2016.12.03配信)

死から生を出すのは不可能だが、

生から死に移るのは自然の順序である。

(夏目漱石、「それから」)

 

夏目漱石の「それから」を読んでいて、

漱石が面白い発想をした所をとりあげます。

主人公代助が見合い写真の相手に対面して、

写真でみても本人と見極めるのは難しいと

感じます。

まず人間を知っていて、本人の写真かどうか

見極めるのは簡単だが、まず写真を見て、

本人かどうか見極めるのは難しい。

これを漱石が哲学的に表現したのが今回の言葉です。

見合い写真は適当に修正し、実物以上に見せます。

その技が漱石の時代にあったかはわかりません。

それはさておき、写真は生きている動を、時間を止め、

動かない静に置き換える技です。

生きている人間は動で、人間を撮った写真は静です。

「動」からは「静」を想定できますが、「静」から

「動」を想定できません。

この「動と静」を「生と死」に見立てたのが漱石の発想です。

仏教的に考えると、生は刹那の連続で、過ぎ去った刹那は

死に変わります。

現在が生で、過去は死になります。

一個人から人類、そして地球誕生と時間をどんどん遡ると、

宇宙の誕生にたどり着きます。

科学は、ビッグバンという理論で、宇宙の生以前の死を

を描きました。

死から生を出すのは不可能だとすると、ビッグバンの前にも

別の宇宙の生があることになります。

漱石は、鎌倉で座禅した経験があるので、写真から

生と死の禅的な見方を思いついています。

漱石の小説の面白さは、ものの見方を随所に述べていて、

今でも納得できることが多い点です。

しかし、この言葉から膨らみビッグバンまで行き着くので、

なかなか先に進めないのが悩みです。

 

有無相生

 

 

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