老子小話 VOL 804 (2016.04.09配信)

われわれは自然を口にしながら、

その折自分を忘れている、

それでいながら、

われわれ自身が自然である。

だから自然というものは、

われわれがその名を呼ぶとき

感ずるものとは何か全然違った

ものである。

(ニーチェ、「漂泊者とその影」)

 

今回は、ニーチェの「人間的な、あまりに

人間的な」より言葉を選びました。

われわれは、自然というときに自分の外の

自然に目を奪われがちである。

自然は外の世界であり、外の世界を観察し、

外の世界に働きかけ、自然の恩恵を得ている。

外の世界を眺める自分がいて、眺められる自然がある。

ニーチェは、自分の内にも自然は広がるという。

人間も自然環境の一部というマクロ的な見方とは異なり、

自分の内にも絶え間ない自然の恩恵が働くという

ミクロな見方である。

普段は見ることができないが、内視鏡を体内に入れると、

胃壁や腸壁を目にすることができ、壁をはう血管を流れる

血液が酸素や栄養分そして老廃物を運び、自分の生命を

維持していることに気づかされる。

自分が目にするのは、外と内の自然の境界である皮膚

そのものである。

人間が自分の存在を、皮膚を通して確認できるのは、

なんとなくわかる。

椅子にすわっていると、椅子から圧力を受ける。

自分の体重で椅子を押すので、椅子は反作用の力を返す。

つまり自分の輪郭を皮膚で感じることで存在を確認する。

近い将来、体内を移動する超小型カメラを飲み込んで、

内なる自然の旅に出かけることも夢ではない。

人類の謎は二つある。

一つは外の自然、すなわち宇宙の起源。

もう一つは内の自然、すなわち生命の起源である。

聖書には、この二つとも神が成し遂げたとある。

「神は死んだ」といったのはニーチェだが、

われわれがいう自然は、まだ目にしていない自然を

包含していないという意味で謎を秘めている。

謎を神に預けず、自然の謎を常に忘れないことが

人類の進歩につながるというニーチェの思いを

感じられた言葉でした。

 

有無相生

 

 

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