老子小話 VOL 759 (2015.05.30配信)

冒険者は冒険をしないと

生感覚は得られない。

(角幡唯介、「探検家の憂鬱」)

 

冒険者を描くものや冒険者が描くもの

は、自然の中で遭遇する危機をいかに乗りこえ、

あるいは乗りこえられなかったを告白するので

興味深い。

最近やたらと富士山登頂を目指すひとが増えている

現象を分析して、

「身体という制御不能な自然を活性化して

生感覚を取り戻そうとする試み」と角幡氏は捉える。

冒険家は、自然から受ける刺激の感度が鈍くなり、

富士山を登ったくらいでは満足が得られない。

「そこに山があるから」山に登るのではなく、

制御不能な自然の中で、生きている実感を確かめる

ために冒険に出かけ、冒険のたびに一層困難な自然に

挑戦したくなる。

雪崩に遇うこと三度、無謀な行動を反省しつつ、

思わぬ雪崩の中で考えた対応策と、幸運にも

埋もれた雪の中から仲間に救われて生還した経験

が生々しく語られる。

生きることが挑戦であり、偶然でありしかも幸運である

と教えてくれるのが冒険のようだ。

人間は、身体という自然を備える限り、皆冒険者として

生感覚を取り戻すため、制御不能な環境に身を置き、

右往左往しなければならない存在ということになる。

生感覚を否応なく感じるのは、死を宣告されたときである。

死を疑似体験するのが冒険である。

自然が死をもたらすとき、もがきながら懸命に生きようとする

姿にひとは宿命を感じ、自らの生を投影する。

角幡氏の眼は、そんな冒険者のこころを冷静に見つめる。

 

有無相生

 

 

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