老子小話 VOL 733 (2014.11.29配信)

手にむすぶ水にやどれる月かげの

有るかなきかの世にも住むかな

 (紀貫之)

 

一茶の「父の終焉日記」(岩波文庫)の

日記書き入れに載っていた紀貫之の辞世の句

をお届けします。

そのまま意味はわかるように思えます。

手にすくった水に月が映ってゆらいでいます。

水面が大きくゆらぐと、月の形さえ見えません。

月が本当にあるのかないのかも不確かになります。

そのような不確かな世界に住んでいたものよ、と

貫之さんは感慨に浸っているようです。

方丈記に出てくる、淀みに浮かぶ水の泡のように、

浮かんでは消え、とどまることを知らない姿は、

この句の月かげと似ています。

世の中を確固たる姿として捉えようとすると、

世界は在り得ないものになるし、世の中を水面に浮かぶ

月かげとして捉えるなら、世界は在り得るものになる。

世の中をどのように捉えるかで世の中は違った姿を見せる。

手ですくった水の中に月を捉えようとすると、

手の震えで水面はゆらぎ、月は消えてしまう。

池や湖に浮かぶ月は、自然の鏡に映されているので、

風が凪げばそのままの姿を見せ、さざなみが起これば、

姿の変化で空気の流れを知ることもできる。

自然を自然のままで捉えると、その奥行きに気づくように、

私心を排して世界を捉えると、世界は違った姿を見せる。

「有るかなきかの世」に見せたものは、「手に結ぶ水」であり、

明鏡止水の心で見るならば、有るままの無常の世が見えます。

この辞世の句は、世の無常を、「手に結ぶ水」、すなわち、

作者の心のゆらぎを通して見つめてきた、と語ります。

「心のゆらぎ」こそが、その人の人生そのものですから、

世の無常は、人それぞれ味付けされた無常なのでしょう。

この句を無常感の一語で片付けると味気ありませんが、

死を前に、悲喜こもごもが融けあった思いが心を廻り、

この世が夢かうつつか定かでなくなる場面を詠んだと考えると、

きっと自分も死に臨めばそう考えるかも知れないと共感できます。

 

有無相生

 

 

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