老子小話 VOL 694 (2014.03.01配信)

重要なのは、光の当たる場所から陰翳に向けての、

また、陰翳から光の当たる場所への、視線の動きである。

かたちは、その最中に立ち現れてくる事件に過ぎない。

 (平野啓一郎、「かたちだけの愛」)

 

光と陰の両方を見つめる眼が、

愛を育むといったら言いすぎだろうか。

交通事故で足を切断した女優に対して、

その義足をデザインすることになった男が

少しずつ愛を芽生えさせていく平野氏の小説から、

言葉をいただいた。

100分de名著で、フロムの「愛するということ」

を見ていたので、タオ的「愛とは何か」を考えてみました。

「かたちだけの愛」は、一般には「表面的な愛」と

受け止められますが、小説の中では、肯定的な意味で使われます。

事故に偶然居合わせたデザイナーは、愛が同情ではないかと迷う。

愛された女優は、愛されることに自信を失う。

しかし、男は、陰から光に立ち上がる女優の姿を見て、

そこに自分の生をかかわらせたいと願うようになる。

また、自分を捨てた母親の陰に対し、受容の気持ちも生まれる。

女優は、男の光と陰を知り、そこに自分の生をかかわらせる勇気を持つ。

愛する対象の光と陰を見つめる眼が、

愛する主体の光と陰を受容する心を育てることになる。

「かたち」は愛の見え方であり、愛する人も愛される人も、

その光と陰にどう自分の生を巻き込むかで、様々な愛が生まれる。

フロムが「愛とは訓練である」と言ったように、

光と陰の両方を見つめる眼は、表層的なかたちに惑わされずに、

相手の心に、そして自分の心に一歩踏み込むことから開かれる。

ひとそれぞれに光と陰があり、それが目まぐるしく変わります。

相手の光で自分の陰が照らされ、相手の陰で自分の光が見えてきます。

陰と光の相互作用の視点で心を通わせるというのが、タオ的愛でしょうか。

 

有無相生

 

 

戻る