老子小話 VOL 673 (2013.10.05配信)

国家に責任をもっている専門家とか、

その専門家を信用する世間の常識というものほど

あやうくもろいものはない。

(司馬遼太郎、「歴史と視点」)

 

司馬氏は戦時中、戦車兵として従軍した。

鋼板をけちり見かけを大事にした日本の戦車は

国民に対し軍の力を大きくみせ、大ぼら気分をあおり、

さらに専門家である軍の首脳まで、「日本陸軍は超一流」

という錯覚をもつようになったという。

鋼板がうすいので防御力に劣り、見かけにこだわり、

砲身の大きいものを積むので機動力に欠け攻撃力もない。

要するに「戦争のできない戦車」に乗って敵と戦うから、

頼るべきものは気合しかなくなる。

「まさか専門家がそうであるはずがない」と誰もが思うが、

当時は誰も気がつかない。

原発も、急成長する戦後日本の電力事情にとっての救世主だった。

原発の安全性や低コストは専門家が太鼓判を押した。

当時知り合いの官僚に核廃棄物の処理について質問をしたら、

どの国も深い洞窟に保管して放射能が消えるのを待つと答えた。

地震や津波で安全性が揺らぐと想定外と答える。

専門家は知識の保有者であり、倫理は別の話である。

専門であるが故に国家に雇われ、それで飯を食べている。

余計なことを言って、職を失いたくはない。

原爆を開発した専門家は、原爆をどのように使うかまで知らなかった。

何十万の市民を一度に殺し、更に被爆症で何十年も苦しみを与える。

それが自分の家族だったらと思って、原爆投下を正当化できる人間はいない。

専門家を信用するほど、怖いことはない。

専門家の話を聞いて、その知識をどのように使うかは、

聞く人間の判断に任されている。

法の専門家の弁護士が詐欺をおこなうご時勢である。

 

有無相生

 

 

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