◆老子小話 VOL 556 (2011.07.09配信)

往者屈也。来者信也。

屈信相感而利生焉。

(易、繋辞下伝)

 

往くとは屈するなり。

来るとは信(伸)ぶるなり。

屈信あい感じて、利生ず。

 

易経の繋辞下伝より、老子の「有無相生ず」に

相応する言葉をお届けします。

太陽が沈めば月が昇り、月が沈めば太陽が昇る。

寒さが去れば暑さが来たり、暑さが去れば寒さが来る。

このような自然の推移には、「有無相生」の原理が働く。

「往くということは永遠に去ることではなく、

一時的に身を屈するだけである。

来ることは永遠に残ることではなく、

一時的に力が伸びただけである。

屈することがなければ、伸びることはできない。

屈伸がお互いに感応しあってはじめて、

ここに利益が生じる。」

自然の運動はまるで、「ばねの運動」のようである。

伸びれば、中心に押し戻そうとする力が働き、屈する(縮む)。

屈すれば、中心に押し戻そうとする力が働き、伸びようとする

ばねの運動は振動である。

老子から見れば、屈伸状態が「有」であり、屈も無ければ信も無い、

中心(原点)にいる状態が「無」である。

人間生まれたときは無一文、それが他人の力で富を築き、

あるいは失い、無一文の「中心」から遠ざかったからとて、

悲喜こもごもするのはもうよそう。

ばねの振動はいずれ中心に行き着き止る。

行き着く先(中心)が、「死」というわけです。

結局あの世には無一文でいくことになります。

 

有無相生

 

 

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