◆老子小話 VOL 512 (2010.09.04配信)

生きるといっても

ひとりで生きるのではなく、

常に、別のいのちに、補填されているのだ。

(小池昌代、屋上への誘惑)

 

小説「タタド」を読んで、小池さんを知り、

「屋上への誘惑」(光文社文庫)の、

「家族の時間」でこの言葉を見つけました。

生まれたとき、完全な球体だったいのちは、

成長につれて、少しずつ欠けていく。

その欠損を埋めるのが他者であると氏はいう。

完全な球体は偏りがなく、どの方向にも転がる。

それが、生きる過程で表面が欠け、角ができ、

なかなか思うように転がらなくなる。

世間の常識、組織のルール、人間関係など、

制約条件が沢山加わってくるからである。

でも、そういった欠損は他者とのつながりで

埋めることが出来るという。

他者のいのちの力をもらって、今日も何とか

生きられたと思えれば、心はすでに完全な球体

となっているようだ。

水の滴が表面張力で球体になるように、

いのちもまた周囲の気からエネルギーを

もらい、偏りのない自由を得ている。

年をとるとは、他人を内に取り込むことで、

いのちが豊かになる状態と氏はいう。

高齢者にとって、確かに年金は必要だが、

人との繫がりを感じられる毎日が、

もっと必要じゃないかと思われる。

氏の言葉からこんな思いが巡った。

最後に、小池さん、荻原朔太郎賞受賞

おめでとうございます。

 

有無相生

 

 

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