◆老子小話 VOL 506 (2010.07.24配信)

器は他者から作られ、

他者によって磨かれる。

器は水の外で作られるのではない。

水の中で作られる。

器の外の水を汲むのではない。

器をつくり、それを磨くとき、

そこに水は満ちている。

(南直哉、「老師と少年」)

 

100ページ余りの小説だが、

意味するところは深い。

少年が老師に、「自分」という器を

どのように作り、使えばよいか問うた。

老師の答えが上の言葉である。

水は、生を意味する。

生きる意味を問うても、答えは無い。

器ができて、水をたたえるのではない。

器ができるプロセスが、生きることだから。

「水の中で器が作られる」とはそういうことだろう。

器の外の水は、他者の生であり、

器の中の水は、自己の生である。

他者の生の恩恵に委ねるだけが生ではない。

内からあふれる生を発散することも生である。

これらの生が渾然一体となり、

死の直前まで器は作り続けられる。

では、死した後に水は枯れるだろうか?

先週の荘子の「火」のように、水は次の器に

引き継がれていく。

「老師と少年」(新潮文庫)で感じた老子でした。

 

有無相生

 

 

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