◆老子小話 VOL 373 (2008.01.05配信)

庖人雖不治庖、

尸祝不越樽俎而代之矣。

(荘子、逍遙遊篇)

 

庖人、庖を治(まかな)わずといえども、

尸祝(ししゅく)は、樽俎(そんそ)を越(うば)いて

之に代らず。

 

庖人は料理人で、尸祝は神主のこと。

樽はお神酒の酒樽で、俎はお供えの肉を置く台。

「料理人が料理をしないからといって、

神主が台所に入って、料理人の代りはしない。」

自由なる精神を持った許由が、堯(昔の王様)から

王様の役を代って欲しいと依頼されたときの言葉。

許由は、自分を神主に、堯を料理人にたとえている。

料理人は、俗事を切り盛りする人を意味し、

俗事を超越した自分が、王に代って、

俗世界(台所)で政治(料理)はしないと辞退した。

政治は、世の中の様々の問題に対し、具体的な

策を講じるという意味で、料理と同じである。

結果として不味くても、料理しなければ始まらない。

料理を放棄すれば、世の中が回らず、国民が苦労する。

許由の答えは、政治の重責逃れではなく、

ひと夫々、職の向き・不向きがあると言っているようだ。

それを派閥や縁故が先立つと、

不向きな輩が料理することになり、ひどい出来栄えとなる。

民主主義とは、国民が、政治家の資質を見極め、

上手い料理人を選び出すことではないか。

美味くても不味くても、できた料理は

国民が食わなければならない。

荘子の言葉は、意味深である。

 

記:有無相生

 

 

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