老子小話 VOL 1274(2025.04.27)

舎己毋処其疑。

処其疑、即所舎之志多愧矣。

(菜根譚)

 

己を舎(す)てては、其の疑いに処ることなかれ。

其の疑いに処れば、即ち舎つる所の志も多く愧(は)ず。

 

今回の言葉は、菜根譚よりいただきます。

己を舎てるとは、身を捨てて献身的になるということです。

舎てるという字は、普通捨てるを使いますが手偏がありません。

何か人為的に捨てるのではなく、自然と捨てる感じが出ていると思います。

自然とそうなったら、それに疑いをもってはいけない。

それを疑ってしまうと、身を捨てるところの心をはずかしめることが多くなる。

孟子がいう惻隠の心に通じる言葉かもしれません。

相手の立場に立ってものごとを感じるとき、そこには己はありません。

生まれもった惻隠の心の発露は疑ってはいけない。

何故なら、自分の生まれ持った性質が自然と現れたに過ぎないからです。

その心を疑ってしまうと、自分の生まれ持った性質をもはずかしめてしまうから。

自分がこうしたら相手はどう思うのか、周りの人がどう思うのかと考えてしまうと疑問が湧き、何も出来なくなってしまう。

この際自然の流れに身を任せ、己を捨ててしまう。

そうすれば一歩前に進むことができる。

志という言葉は、意志というか意図的というか人為的な匂いがします。

しかしここでは無心に随う身の置き方と解釈しましょう。

上の言葉のあとで、恩を施しても報いを求めてはいけないと続きます。

その理由は、恩を施した初心を無駄にするからという。

これも、恩を施したのは自然の流れに随ったまでのことで、報いを求めたからではない。

タオの立場から見ると、自然が与えてくれた性質に素直に随った結果、恩を施したように思われるというのが真実でしょう。

そこには恩を施した意識もない。

人間が苦悶のなかを必死にもがいて生きていく姿を見て、思わず涙するのは自分をそこに重ね合わせているように思います。

 

有無相生

 

 

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