◆老子小話 VOL
1254(2024.12.07)
生者仮借也。
仮之而生。
生者塵垢也。
死生為昼夜。
(荘子、至楽篇第十八)
生は仮借なり。
之を借りて生くるなり。
生は塵垢なり。
死生は昼夜たり。
今年もあとひと月をきりました。
あっという間に過ぎ去ろうとしている一年ですが、個人的には生の不思議を感じた年でした。
自分は生きているというより、生かされている思いが強くなりました。
今回の言葉は荘子よりいただきました。
この言葉は、支離叔と滑介叔が冥伯の丘を訪れたとき、滑介叔の腕に突然悪性のこぶができた話から生まれます。
冥伯の丘というのは、死者の墓を意味し、恐山のような所です。
支離叔は、「そのこぶはいやか?」と滑介叔に聞きます。
不吉な場所で死を予感させるできものが現れたので、いやに決まっています。
ところが滑介叔は、この言葉を吐きます。
「もともと人間の生命は借り物だよ。
いろいろなものをあちこちから借りてきて生きているにすぎない。
生命はちりあくたのようなもので、そこから生まれそこに帰っていく。
だから、死生は昼夜が交代するようなもの。」
旧約聖書の創世記にも、「塵にすぎないお前は塵に帰る。」が書かれています。
映画の葬式シーンで語られる、ashes to ashes, dust to
dustです。
洋の東西を問わず、そんなイメージがもたれているようです。
支離叔と滑介叔の会話に戻れば、
「そもそも死生の変化を見に冥伯の丘を訪れ、そこで変化が自分に及んだのだからいやなわけはないよ。」
と滑介叔は結びます。
わが身を振り返れば、今年四月に急性心筋梗塞で倒れ、周りの人間や医師の助けで生かされ、今こうして次の年を迎えられるに至っている。
人生が借り物というのは、いろいろな助けを借りながら生きている意味です。
塵から誕生できたのは親の助けであり、自然の恵みである。
そして死んで塵に帰っていくにも、いろいろな助けを借りている。
こう考えると、生も死も借り物で、光が当たっているかいないかの差でしかない。
というわけで、荘子の言葉はじわっと身にしみてきます。
有無相生