老子小話 VOL 1237(2024.08.10配信)

惠子曰、子非魚、安知魚之楽。
莊子曰、子非我、安知我不知魚之楽。
(荘子、秋水篇第十七)

 

惠子曰く、きみ魚に非ず、なんぞ魚の楽しみを知らんやと。

荘子曰く、きみ我に非ず、なんぞ我の魚の楽しみを知らざるを知らんやと。

 

今回の言葉は荘子からのお届けです。

橋の上から水の中を自由に泳ぐ魚を見て、始まった恵子と荘子の問答です。

荘子は、水の中を自由に泳げるのは魚の楽しみだと、恵子に言う。

恵子は、「君は魚じゃないのに、どうして魚の楽しみがわかるのか?」と質問します。

それに対し荘子は、「君は僕じゃないのに、僕に魚の楽しみがわからないとどうしてわかるのか?」と応える。

そもそも議論によって魚の楽しみが理解できるものではありません。

魚に近づいて魚になったつもりで、その楽しみに想像を巡らすことが魚の楽しみがわかります。

魚の楽しみは、魚の見るひとそれぞれで違うはずです。

荘子は上の問答のあとで、恵子は荘子(僕)が魚の楽しみを知っていることがわかった上で、質問したという。

荘子がいうところの物化を通して、瞬時に魚になることができると恵子は理解しているはずだと荘子はいう。。

他者の気持ちを推し量るという場面はしばしば出会います。

自分は他者ではないから、本当の気持ちはわかりません。

しかし、他者に寄り添ったとき、私の気持ちと他者の気持ちは重なる。

そのとき感じた自分の気持ちが、自分にとっての他者の気持ちとなる。

これは議論でどうこうするものではありません。

個々人の物化の過程で体験する気持ちです。

読書というのも、魚の楽しみを知るきっかけになると思います。

主人公が人間でも動物でもいいのですが、自分を主人公に同化する機会を与えてくれます。

その機会の積み重ねが、他者に寄り添うトレーニングにもなります。

荘子の言葉から思わぬ方向に話が逸れてしまいました。

 

有無相生

 

 

戻る