◆老子小話 VOL
1232(2024.07.06配信)
子曰、其言之不怍、則爲之也難。
(論語、憲問第十四)
子曰く、其の言にこれ怍(は)じざれば、則ちこれを爲すこと難し。
今回の言葉は、孔子のお言葉をお届けします。
金谷先生の岩波文庫訳では、「自分の言葉に恥を知らないようでは、それを実行するのは難しい」とあります。
何で恥じなくちゃいけないのかと思ってしまいます。
有言実行の人なら、恥じないように思います。
怍を「とがめる」と読むと、「反論を受けない提案を実行するのは難しい」という解釈になります。
怍を「恥じる」と読んだのが、金谷先生の訳です。
恥じてしまうのは、大言壮語、つまり大ぼらを吹いた場合です。
大ぼらを吹いた本人が恥じるのは、その実現できなかった場合を心配するからです。
最初から実現するつもりがなければ、恥らう気持ちも浮かびません。
もしそうなら、実現など論外になります。
孔子はこちらを意図したとする解釈もあります。
金谷先生の訳は、そこまで決め付けずに解釈の幅を広げているように思えます。
自分の言葉に責任を持って発言する。
孔子は別の場所(衛霊公第十五)で、「辞は達するのみ」(言葉は通じさえすればよい)という。
自分の言葉を選びながら、意を相手に伝える。
自分の選んだ言葉に常に恥じらいを感じつつ、発言する。
意がうまく表現できたのか、それが相手にうまく伝わったのか、そこには迷いが必ず横たわる。
そんな発言の雰囲気が金谷先生の訳には漂っています。
何ら恥じらいもなく、言葉を発する人間は信用することはできない。
言葉だけが飛び交うSNS社会のなかで、論語の言葉は光を放ちます。
有無相生