老子小話 VOL 1228(2024.06.08配信)

片手を満たして、憩いを得るのは
両手を満たして、なお労苦するよりも良い。
それは風を追うようなことだ。
(コヘレトの言葉) 

 

今回の言葉は、旧約聖書の「コヘレトの言葉」よりお届けします。

主題は先週の菜根譚の言葉と同じです。

表現の仕方は、旧約聖書が生まれた砂漠地帯特有の風を使っています。

砂漠地帯の風すなわち砂嵐は、砂漠の風景を一変します。

風を引き起こすのは、神であり自然であり、タオ二ストにとっては道です。

その風を追うということは、神なり自然のなす業を追求することです。

神なり自然のなす業は追求しても追求しつくせない。

巨大隕石が地球に衝突して恐竜が絶滅したように、いつそのようなことがまた起こるか誰にも予測できません。

従って、「風を追う」というのは、空しいことの代名詞になります。

砂漠に住む人間も、モンスーン地帯に住むわれわれも、神(自然)のなす業により、生きる糧を得ています。

その糧を生き続けられる分だけ得て、残りの時間を憩いに当てるのがよい。

いわゆる知足的な生活を送る。

その反対にその糧を両手一杯に満たそうとすると、いろんな労苦が生じる。

老子第九章にいう、「金玉堂に満つる」ことになり、他者との軋轢を生む。

どっちが得かを考えれば、そこそこの糧で満足し、憩いを得て暮らしたほうがいいに決まっています。

コヘレトがいう「憩い」は何を意味するのでしょうか?

神(自然)のなす業により、生きる糧を得ているという実感のように思えます。

神(自然)の業は永遠に不変で、付け加えることも除くことも許されない。、

今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったことと、コヘレトは語ります。

老子第十六章に、「万物は並び作(お)こるも、吾れは以って復(かえ)るを観る。」とある。

万物はすべて盛んに生長していても、自分にはもとに帰っていくのが見える。

復るとは、コヘレトの「既にあったこと」に相当するようです。

原点回帰の神(自然)の業を実感しつつ、日々の糧に感謝することが、「憩い」ではないでしょうか。

ここでも、「コヘレトの言葉」と老子のつながりに遭えました。

 

有無相生

 

 

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