老子小話 VOL 1193 (2023.09.23配信)

生也死之徙、死也生之始、孰知其紀。
人之生、氣之聚也。聚則為生、散則為死。
若死生為徙、吾又何患。故萬物一也。
(荘子、知北遊篇第二十二) 

 

生や死の徙,死や生の始め。孰か其の紀を知らん。
人の生は気の聚(あつ)まれるなり。
聚まれば則ち生となり、散ずれば則ち死となる。

若し死と生と徙をなせば,吾又何をか患えんや。

故に萬物は一なり。

 

今回は、荘子の知北遊篇よりお言葉を頂戴します。

ちょっと長いですがご勘弁を。

気の動きでひとの生と死をとらえる考えが見えます。

「生は死の同伴者であり、死は生の始めである。

いすれがその始めか知ることができようか。

生は気が集まっている状態をいう。

気が集まれば生となり、気が離散すれば死となる。

もし生死が気の集散にすぎず同類とするならば、

生死を心配する必要があろうか。

だから、万物は一気よりなり、一つである。」

生も死も気の集散で決まり、次々と移り変わり、どちらが先だかわからない。

身体を構成している気は、身体を構成している元素であり、死ねば身体は腐敗し分解され土に還っていく。

その土から植物が生え、それを食べる動物はその元素を取り込む。

死体が海に流れれば、分解して魚やプランクトンのえさになる。

人間は食料として食べる動植物を通して、死者の元素を体内に取り込む。

このように元素の集散が生死の繰り返しと考えると、気持ちが落ち着いてきます。

最近、散骨や樹木葬が増えているのも、死後の身体の元素を大地に還す思想が浸透しているためかもしれません。

荘子が生きたのは、今から2300年ほど前のことです。

その当時の人々は、ひとの死後のありさまを日常的に見ていたので、気の集散で生死を考えるきっかけはたくさんあったと思います。

現代では、火葬にして壷のなかに遺灰を閉じ込めるので、大地に戻しようがありません。

アメリカでは、コンポスト葬といって遺体を堆肥にして大地に戻し、植物の生育に役立てようという運動も起こっています。

気の流れを断ち切らずに、自分の死から他の生き物の生につなげていく、タオの思想にあっていると思います。

人間だけが特別という意識は、荘子の言葉にはありません。

万物斉同という立場は、今回の言葉にもつながっています。

 

有無相生

 

 

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