老子小話 VOL 1180 (2023.06.24配信)

若将耳聴応難会、眼処聞声方始親。
(無門関) 

 

若し耳を將(も)つて聴かば、応(まさ)に会し難かるべし。

眼処に声を聞いて、方(まさ)に始めて親し。

 

今回の言葉は「無門関」よりいただきました。

「無門関」は臨済宗の公案集です。

公案というの禅問答のことで、覚りの境地に導くための課題です。

この言葉の前に、「外の音を聞くとき、音が耳にやってくるのか、耳が音のほうに行くのか?」という質問があります。

それに対して、

「声を耳で聴くようではここの所はわからない。

眼で声を聞いてこそ、はじめて声と一体になる。」

と答えている。

眼で声を聞くというのは、日常やっていることです。

単に音声という言葉ではなく、言葉を発する主体の心に眼が向けられている。

例えば、母親が子供の話を聞くとき、話す表情に眼を向ける。

講演を聴くときも、講演者の眼を見て、話を聞く。

人対人の場合に限らず、自然の中で聞こえるかすかな音に心の眼を向ける。

芭蕉が「古池や蛙飛び込む水の音」を詠んだときも、ポチャンという音で蛙を連想し、古池を心に浮かべる。

音を発する自然とそれを聴く自分を遊離させず、自然の中に自分が同化することで、自然と一体になれる。

自然と自分を対峙の関係に置かず、自分も自然の一部になる。

蕪村の「涼しさや鐘をはなるゝかねの声」では、鐘の音を聴きながら、自らが鐘となって、涼しさのもとになる声を四方に届ける情景を心に浮かべる。

これは拡大解釈かもしれませんが、無門関の言葉からつい連想してしまいます。

政治家は、国民の声が自分に届くまで待っているようでは、政治家失格です。

国民の声を耳で聞いているからです。

国民の声をその表情とともに、自分の眼で聞き取らないと、政治家とは言えません。

政治家だけではなく、官僚も企業経営者も皆同じです。

忙しさにかまけて耳だけで聞いているうちに、心地よい声しか届かなくなる。

そうならないようにと、無門関の言葉は戒めている。

 

有無相生

 

 

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