◆老子小話 VOL
1176 (2023.05.27配信)
われわれは自然を口にしながら、その折自分を忘れている。
それでいながら、われわれ自身が自然である。
(ニーチェ、「人間的なあまりに人間的な」)
今回は、ニーチェよりいただきました。
「忘れられた自然」と題された言葉の中にあります。
われわれは、自然という言葉を発するとき、外なる自然を思い浮かべ、内なる自然を忘れがちになる。
外なる自然は見る事ができますが、内なる自然は見る事ができない。
しかし、内なる自然はたえず声を発している。
そこで体の中の水の流れを考えてみます。
飲料水などでとった水分は腸で吸収され、血管内に入り全身に行き渡り、栄養物を運び、老廃物を集めます。
血液の約90%が水なので、どこにでも沁み出していく。
老廃物は腎臓でろ過され、尿として体外に排出される。
また水は汗として排出することで、気化熱により体温を調節する働きもする。
このように水は、私たちの生命を維持するために、常に体のなかで循環しています。
まるで、水が、川、海、雲、雨と姿を変え、地球上を循環するように、体内を流れていきます。
内なる自然は、ふだん目にすることがないので、その恩恵を忘れがちになる。
暑い日に水分補給を行なわないと、内なる自然は悲鳴をあげます。
汗に使う水分が足りなくなると、体温調節ができなくなり、熱中症にかかります。
われわれは、自分の生命が水によって支えられていることを内なる自然の悲鳴によって知ることになる。
内なる自然は本当に正直で、これ以上頑張りきれないとき、必ずSOSを発します。
でもそこまで行く前に、ささやかな声を発しています。
老子が、「希言は自然なり」(第二十三章)に言う、あの希言です。
これを聞くには、ふだんの身体状況を感覚的におさえることが大切なようです。
そこから外れた状況が現われたとき、何かが体内で起こっていると直感できます。
声を聞いたあとどうするかはあなたにまかされます。
いずれにせよ、声がその後の成り行きのターニングポイントになります。
有無相生