◆老子小話 VOL
1175 (2023.05.20配信)
善游者溺、善騎者堕。
(淮南子、巻一原道訓)
善く泳ぐ者は溺れ、善く騎る者は堕つ。
今回は、淮南子よりお届けします。
「禅林句集」をぺらぺらとめくっていて、めぐり合った言葉です。
原典が淮南子だったことを知り、ネットで調べると有名な名言ということも知りました。
「泳ぎが得意な人は溺れ、乗馬が得意な人は落馬する」
得意であるが故に、かえって自分から災いを招くという意味とあります。
油断して失敗するかは問わないように思われます。
水泳が得意だと、水難事故の救援に担ぎ出され、最悪命を落とすこともある。
戦国時代なら、乗馬が得意だと騎馬兵に抜擢され、最悪命を落とすこともある。
平常と異なる環境下で得意技を求められるので、想定外のリスクが加わり、技術が発揮できないケースです。
そこでは油断している余裕はありません。
とにかく自分が持っている技を役立てたいという一心で事態に参加する。
この言葉は禅語としても扱われているので、「サルも木から落ちる」のように、得意になって油断するな的な低い次元ではないはずと考えてしまいます。
禅宗の修行では、どんなに時間をかけて修行を積んでも、覚りに達しない場合がある。
修行を積んだことに満足し修行に溺れてしまう。
修行は手段であり、手段の段階で甘んじていては、その先の覚りにたどり着けない。
水泳も乗馬も、水と一体になるための、あるいは馬と一体になるための手段であると考えられないだろうか。
その先の目的はなんだろうか?
自然と一体になったあとに、何ものからも自由になった心の解放にたどり着く。
技を技として扱われると、技には限界があり、それなりの危険はいつも付いてきます。
技と手段として考え、技の先に何が来るのか見すえていると、技に溺れることは避けられるように思います。
剣の達人宮本武蔵も、剣に溺れず、空の心にたどり着きました。
有無相生