◆老子小話 VOL
1166 (2023.03.18配信)
往者屈也。来者信也。屈信相感而利生焉。
(易、繋辞下伝)
往くとは屈するなり。
来たるとは信(の)ぶるなり。
屈信相い感じて利生ず。
今回は、「易」より、孔子の言葉をお届けします。
「往くとは永遠に去ることではなく、一時身を屈するだけである。
来るというのは、永遠にここに残ることではなく、一時力が伸びた状態に過ぎない。
屈することがなければ、伸びることはない。
屈伸が互いに感応しあって始めて、利益が生じる。」
この言葉の意味は深い。
「往く」を死と考えるなら、死は永遠に消えることではなく、未来のために力を蓄えることだという。
ちょうど、バネが縮んでエネルギーを貯め込むように。
もちろん、貯め込んだエネルギーを使うのは未来の人々である。
反対に「来る」はこの世への誕生であり、受けた生である。
この生は、この世に安住することではなく、縮んだバネがエネルギーを放出する状態ということになる。
あたかもバネの伸び縮みによってエネルギーの交換を行ない、生をつないでいく人類の姿を描いた言葉に思えます。
新生活を始めようとする方々にとって、「往く」とは卒業を、「来る」とは入学・入社を意味することになる。
卒業は何かを失うことではなく、これまでの環境で得たエネルギーを貯め込んだ状態を意味します。
そのエネルギーを新たな環境で発揮するのが、入学・入社となる。
屈伸が互いに働きあって、効用が生まれるということはどこかで聞いた事がありませんか?
老子の「曲なれば則ち全し」では、尺取り虫の屈曲は前進するためのエネルギーとなっていることを示唆しています。
「反る者は道の動なり」では、後退しているように見えても、実は前進のためのエネルギーを蓄えているのが自然の営みという。
桜の花も、枯れ木から芽が出て花が咲く。
枯れ木に見えても、開花のためのエネルギーを宿している。
日本の少子高齢化も、新たな日本に生まれ変わる通過点とみることもできます。
屈の状態のときに、どれだけ前進のエネルギーを蓄えられるかがポイントになるわけです。
エネルギー危機や食糧危機が訪れたときに、国内で資源の確保ができるのか?
いつまでも輸入に頼っていると、にっちもさっちも行かなくなるのは目に見えている。
「易」の言葉は、あらゆることに展開されていく。
有無相生