老子小話 VOL 1166 (2023.03.18配信)

往者屈也。来者信也。屈信相感而利生焉。

(易、繋辞下伝)

 

往くとは屈するなり。

来たるとは信(の)ぶるなり。

屈信相い感じて利生ず。

 

今回は、「易」より、孔子の言葉をお届けします。

「往くとは永遠に去ることではなく、一時身を屈するだけである。

来るというのは、永遠にここに残ることではなく、一時力が伸びた状態に過ぎない。

屈することがなければ、伸びることはない。

屈伸が互いに感応しあって始めて、利益が生じる。」

この言葉の意味は深い。

「往く」を死と考えるなら、死は永遠に消えることではなく、未来のために力を蓄えることだという。

ちょうど、バネが縮んでエネルギーを貯め込むように。

もちろん、貯め込んだエネルギーを使うのは未来の人々である。

反対に「来る」はこの世への誕生であり、受けた生である。

この生は、この世に安住することではなく、縮んだバネがエネルギーを放出する状態ということになる。

あたかもバネの伸び縮みによってエネルギーの交換を行ない、生をつないでいく人類の姿を描いた言葉に思えます。

新生活を始めようとする方々にとって、「往く」とは卒業を、「来る」とは入学・入社を意味することになる。

卒業は何かを失うことではなく、これまでの環境で得たエネルギーを貯め込んだ状態を意味します。

そのエネルギーを新たな環境で発揮するのが、入学・入社となる。

屈伸が互いに働きあって、効用が生まれるということはどこかで聞いた事がありませんか?

老子の「曲なれば則ち全し」では、尺取り虫の屈曲は前進するためのエネルギーとなっていることを示唆しています。

「反る者は道の動なり」では、後退しているように見えても、実は前進のためのエネルギーを蓄えているのが自然の営みという。

桜の花も、枯れ木から芽が出て花が咲く。

枯れ木に見えても、開花のためのエネルギーを宿している。

日本の少子高齢化も、新たな日本に生まれ変わる通過点とみることもできます。

屈の状態のときに、どれだけ前進のエネルギーを蓄えられるかがポイントになるわけです。

エネルギー危機や食糧危機が訪れたときに、国内で資源の確保ができるのか?

いつまでも輸入に頼っていると、にっちもさっちも行かなくなるのは目に見えている。

「易」の言葉は、あらゆることに展開されていく。

 

有無相生

 

 

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