老子小話 VOL 1164 (2023.03.04配信)

鶯の枝ふみはづすはつねかな

(蕪村)

 

今回は蕪村の句をお届けします。

日増しに寒さもゆるみ、春らしくなってきました。

鶯のこえを聞くことも少なくなっていますが、ここは蕪村の句でその音を味わいましょう。

蕪村自身も鶯になって、春一番の歌声を届けようとしています。

初音とは、その年、その季節の最初の鳴き声です。

鶯だって、最初の鳴き声なので、緊張ぎみで木に止まります。

発声のほうに気をとられて、枝を踏み外す始末になってしまった。

蕪村の温かい眼が鶯に注がれる。

まさかそんなことはないにしても、鶯も緊張のあまり枝を踏み外すとすれば、ますます鶯がいとおしくなるのは当然です。

鶯と一体になって、春一番の歌声を届けようとする蕪村が句にあらわれています。

荘子がいう「物化」の句ともいえそうです。

荘子は、胡蝶の夢という話のなかで、蝶が自分になったのか、自分が蝶になったのかわからない状態を物化と呼びました。

鶯の初音にのぞむ緊張状態は、自分の緊張状態になってあらわれる。

自分が枝のうえでうまく歌おうとすれば、一瞬バランスを失って落ちてしまうかもしれない。

そんな不安を鶯(自分)に投げかけ、何とか乗り切って初音を届けてという願いを抱いている。

鶯を滑稽化するよりも、鶯の気持ちに寄り添って、初音を楽しんでいる蕪村の姿が思い浮かびます。

一茶の「やせ蛙負けるな一茶これにあり」も、やせ蛙に見たものは自分の姿だったように思えます。

自分が自然と一体になると、自然の中に自分を見出し、自分の中に自然を見出す機会に恵まれるようになる。

蕪村の句は、その機会を与えてくれます。

 

有無相生

 

 

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