◆老子小話 VOL
1159 (2023.01.28配信)
夫言死人為帰人、則生人為行人矣。
(列子、天瑞篇)
それ死人を帰人たりと言えば、則ち生人は行人たり。
今回の言葉は、「列子」より選びました。
本棚にあった、川合康三氏の「生と死のことば」(岩波新書)をぱらぱらめくっていて、目にとまった言葉です。
行人とは旅人のことで、夏目漱石の小説の題にもなっています。
わたしの恩師の名前でもあります。
恩師の父親が漱石ファンだったと聞かされました。
訳すまでもありませんが、一応訳してみます。
「そもそも死んだ人を帰人というなら、生きている人は旅人だ。」
帰人というのは帰る人ですが、どこに帰るのでしょうか?
荘子大宗師篇に、大塊(天地、造化の神)は、人間に形を与えてこの世に誕生させ、苦労をもって生きさせ、死をもって休息させるといいます。
従って、帰人は休息する場所に帰ります。
旅人が休むのは、宿屋になります。
つまり列子の言葉は、人生をスタートするのは旅の始まりで、宿屋から始まり、人生を終えるのもまた宿屋という、死生観を物語ります。
荘子にとって宿屋とは、天地になる。
人間に形を与えるときの材料は天地にあり、人間から形を奪ってその構成物を天地に戻す。
同じく大宗師篇に、天地は大きな炉であり、炉には溶けた金があり、造化の神は鍛冶屋となり溶けた金を鋳型にいれて万物を造ると説明する。
いま、橋爪大三郎氏の「死の講義」(ダイヤモンド社)を読んでいます。
そこでは、一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)、仏教、儒教、道教、日本人の死の考えを比較し、わたしたちがどのように死を考えたらよいのか提言されています。
老荘の思想は、道という神のような存在を信じる点では一神教のような感じでもあります。
でも一神教のように、死んでも復活して死なないと考えることはないので、一神教と言い切ることはできません。
仏教は釈迦が修行して覚りに至ったプロセスをたどろうとする出家者の小乗仏教から、死後に輪廻を繰り返し修行を続ければ仏になれるとする、在家の大乗仏教に変わっていく。
老荘には輪廻の思想はないので大乗仏教とは異なる。自然の声から道の教えと覚ろうとする点では、釈迦のプロセスをたどるともいえる。
大乗仏教のひとつの禅宗には老荘が影響するといわれている。
人間が仏になれるのは、そもそも人間に仏性があるからと考える。
座禅をすることで仏になれる。死ねば仏であってもなくても、消えてなくなる。
禅宗は、修行とか仏典よりも、釈迦がやった座禅を重視する。
老荘は座禅を語らないが、自然の声に耳をすまして道を直観することをすすめるので、禅宗と似ていることがわかる。
中国では、農民が生きるために政治を重視するために、儒教が尊ばれた。
人間の統治の及ばない死については、儒教は目を背ける。
老荘は、人間の統治の及ぶ領域で理想を実現できない人々の救いの世界として生み出された。
橋爪大三郎氏は無為自然の世界を儒学の反世界、「ウラ儒学」と名づけた。
しかし老荘から発展した道教は、仏教から地獄の思想を借り、死の世界に対応した。
老荘は死を休息と考え、死の世界に生きるとは考えないので、道教とは死の考えが異なる。
ここで今回の言葉に戻る。
生きている間の旅を大切にして、死んだあとのことは考えない。
列子もまた、始まりも終りも偶然に決められる人生という旅こそが、自分の存在証明だといっているようです。
有無相生