老子小話 VOL 1149 (2022.11.19配信)

寛大になるには、年をとりさすればよい。

どんなあやまちを見ても、自分の犯しかねかなったものばかりだ。

(ゲーテ)

 

今回は、文豪ゲーテ先生のお言葉です。

思わず苦笑してしまう言葉です。

歳をとっても寛大でない方もいるので一概には言えないでしょうが、自分の経験を照らしてみれば確かにそう思う事が多々有ります。

自分が犯した、あるいは犯しそうな過ちを他のひとが犯しそうなのを見ると、寛大な心が芽生えます。

ゲーテ先生も長生きされたので、過ちをたくさん繰り返して、この言葉に至ったのではないでしょうか。

寛大になるということは相手の過ちを許すことなので、相手の過ちを見て自分の過去を思い出し、まあ仕方がないかと考えることです。

つまり、相手の過ちを見て自分の過去の過ちを思い出すプロセスAと、自分もやってしまう過ちは相手が犯しても仕方がないと判断するプロセスBを経て、寛大になるようです。

相手の過ちを見ても寛大にならない場合、A、Bのプロセスのどちらかが欠けている場合です。

まずプロセスAが欠ける場合とは、自分の過ちをすでに忘れている場合、あるいは、相手の過ちと自分の過ちは異なっていると思う場合になります。

次にプロセスBが欠ける場合とは、自分の過ちは許せるが相手の過ちは許せない場合になります。

歳をとっても寛大でない方は、自分の過ち自体を忘れているか、過ちの記憶はあるものの、相手の過ちと同一視できないか、同一視していても相手の過ちを許容できない場合のいずれかになります。

ゲーテ先生のことですから、過去の過ちは自分にとって肥やしとなり、同じ過ちを他人が犯したときは昔の自分を思い出し、寛大になることが多かったのでしょう。

凡人である私は、他人の過ちに寛大になっていない自分を見つめ、忘れかけていた自分の過ちを思い出し、これじゃいけないと反省することになります。

過ちの記憶から出発しなければいけないのに、過ちの記憶にさかのぼる羽目に陥っています。

聖書に出てくる神様の言葉は寛大な心にあふれていますが、ゲーテの言葉から類推しますと、人間が犯しかねないあらゆる過ちを神様はとっくに犯してしまった過ちのように見えてきます。

だからこそ、人間に寛大な心を求めているようです。

これはうがった見方なのでしょうか?

 

有無相生

 

 

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