◆老子小話 VOL
1145 (2022.10.22配信)
竹影掃階塵不動。
月輪穿沼水無痕。
(菜根譚)
竹影、階を掃って塵動かず。
月輪、沼を穿って、水に痕なし。
今回は久々に「菜根譚」よりお届けします。
夏目漱石の「草枕」で「竹影掃階塵不動」に出会い、そこからこの言葉を見つけました。
「菜根譚」には、この言葉は名僧の言葉の引用であると記され、原典は「普灯録巻八」となっています。
ひょんな出会いで言葉のみなもとをたどれるものです。
「風にゆれる竹の影が階段を掃いているように見えるが、段上の塵は少しも動かない。
月の光は沼の底まで突き通し、沼を穿っているように見えるが、水にはその痕跡はない。」
外界(現象界)は常に動の世界である。
風は竹を揺らし、月光は沼を穿つ。
しかし、外界を感覚する内界(心)は常に静である。
人間界という外界の変化に対し、常に心を動かされるのが人情の世界。
そこから隔絶して静を保つのが、非人情の世界。
漱石は、「四角の世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでよかろう。」という。
智に働けば角が立ち、情に棹させば流され、意地を通せば窮屈になる人の世をのどかにし、人の心を豊かにするのが芸術家の役目という。
四角の世界から人情という煩いの次元を除けば、少しは住みやすくなると考えました。
ものごとを複雑に考えると、いろいろなパラメータが取り込まれ、それらを制御するのが困難になります。
特に人間関係というパラメータは、ほんの少しの変動が心に大きな影響を及ぼします。
漱石のいう芸術は、心が自由に飛翔する世界、荘子がいう所の、逍遙遊の世界である。
その世界に芸術家はわれわれを誘ってくれる。
確かに仏像を見ていると、心が落ち着いてきます。
無窮の時間にわたって、慈悲の光を放っておられます。
その光に救われて、心は四角の世界を離れて、宇宙を自由に飛翔する。
仏像を彫る芸術家は、仏でもある。
「草枕」において菜根譚の言葉に出会い、そして「草枕」に還り、荘子の世界に飛ぶ。
まさに芸術は、魂の飛翔を誘うものだと実感しました。
有無相生