◆老子小話 VOL
1138 (2022.09.03配信)
知者不言、言者不知。
塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。
是謂玄同。
(老子、第五十六章)
知る者は言わず、言う者は知らず。
その兌(あな)を塞ぎて、その門を閉し、その鋭を挫いて、
その紛を解き、その光を和げて、その塵に同じくす。
これを玄同と謂う。
今回は、老子より、「和光同塵」のもとになった言葉をお届けします。
少々長い言葉ですがお付き合いください。
「真の知者は語らない。べらべらと語る者はわかっていない。
真の知者は、感覚器官の穴を塞いで、知識の出入り口を閉ざす。
鋭敏な感覚を鈍くして、鋭敏さから起こるもつれを解きほぐす。
感覚の対象が発する光を和らげて、対象自体と同化する。
これを不可思議な同化という。」
原文には「其」が多く使われるので、指示語と考えるとわけがわからなくなります。
金谷先生の解釈に従って、音調を整える助辞として考えることにしました。
兌(あな)は、荘子の渾沌の話に出てくる、七つの穴と同じです。
目、耳、鼻の2つの穴と口の合わせて七つで、視覚、聴覚、臭覚、味覚を対象から受け取るための感覚器官のことです。
受け取った感覚をもとにして、知識を組み立て、対象を理解する。
対象から刺激を直接受けてしまうと、刺激の強さで感覚が麻痺してしまい、知識のもつれが生じてしまう。
従って、感覚器官にフィルターをかけて刺激を弱めれば、対象が発する光はやわらぎ、対象の自然の姿をとらえることができる。
「塵」は、感覚の対象となる自然全体の世界を指しており、人間界(俗世間)に限定するものではありません。
「和光同塵」というと、自分の才能を隠して、俗世間の中で目立たないように暮らすという意味と辞書に載っています。
しかし、老子の意図は、ものを知るためには、対象と同化することが第一といいます。
老子第4章にも「和光同塵」は出ています。しかしそこでは意味ははっきりしません。
第56章にて、玄同に落ち着きます。
たとえるなら、太陽を直接見てもまぶし過ぎて何も見えません。
雲を通して、あるいはすすの付いたガラスを通して、光を和らげて始めて、太陽は炎を出して燃える星ということがわかります。
知識も同じことで、感覚器官を通して、単に情報として入手した知識は本当の知識ではありません。
実際に自分が体験して、更に自分の中で対象自体と同化することで、始めて真の知識となる。
そのようにして得た知識は、言葉ではなかなか語れない。
それをあたかも見てきたように語るひとはまだ理解していない。
立花隆さんもいうように、自分ががんになって始めて、「がんは自分自身」とがんを理解するのと似ています。
老子の「和光同塵」を体験すると、深層の知に触れることができるのはないでしょうか。
有無相生