老子小話 VOL 1126 (2022.06.11配信)

離別れたる身を踏込んで田植哉

(蕪村)

 

さられたるみをふんごんでたうえかな

 

世界は慌しく情勢変化する中、季節はいつの間にか梅雨入りしました。

人間界はいまだ戦争が続きますが、自然界は毎年雨の恵みを施します。

今回は、蕪村の句で梅雨に行なう田植えのドラマを味わってみようと思います。

この句に出会うきっかけは、最近出版されたドナルド・キーン氏の「正岡子規」(新潮文庫)でした。

蕪村の句を再評価したのは子規ですが、キーン氏は人間関係の妙を詠んだ句としてこの句を挙げています。

「離別れたる身」とは、離縁された元妻のことをいいます。

田植えはその昔、村総出の共同作業であり、離縁された女性も田植えに駆り出されました。

田んぼで、元夫や嫁いだ家の家人と顔を合わせる場面もあったわけです。

なんだか照れくさいやら気後れする心を振り払って、田んぼに踏み込んでいる。

そんな心が交錯する情景をうたいます。

今なら、田植えに参加する義務もなければ、離縁するのは自分の方だったりして気後れなんて毛頭ないのでしょうが。

蕪村が生きた江戸時代は、農民は士農工商と武士の次の階級でしたが、幕府は農民を土地に縛りつけ年貢を取りたてる対象でした。

五人組という制度を設け、相互監視を行なわせ相互責任を負わせ、どんなに苦しくとも土地を捨てることは許しませんでした。

年貢米を作るための田植えは、村人総出の作業になるのは当然の事でした。

また江戸時代の離婚は、夫から妻に離縁状を出して妻が受理することで成立したので、女性はどうすることもできなかった。

このような背景を前提に蕪村の句を読むと、「踏込んで」が生きてくる。

目の前の田植え作業に集中することで、余計なものと視線を合わせないようにする姿が目に浮かびます。

読み手からすると、どんな理由で離縁されたのか、とか、下を向き田植笠で顔を隠しながら田植えをしていたのか、とか想像が膨らみます。

農村という制約された共同社会の中でたくましく生きる女性の姿が主題と考えることもできる。

ひとつのドラマが17文字の世界で展開する。

たまたま見かけた田植えの女性に、このようなドラマを見た蕪村のイマジネーションと彼女を応援する優しさに感服します。

 

有無相生

 

 

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