老子小話 VOL 1120 (2022.04.30配信)

夫言死人為帰人、則生人為行人矣。

行而不知帰、失家者也。

(列子、天瑞篇第一)

 

夫れ死人を帰人為りと言えば、則ち生人は行人為り。

行いて帰ることを知らざるは、家を失う者なり。

 

今回の言葉は、「列子」からお届けします。

行人は漱石の小説の題名にあるように旅人を意味します。

「そもそも死んだ人を帰り着いた人と言うなら、生きている人は旅人である。

旅に出たまま帰ることを忘れるのは、自分の住処を失ったのと同じである。」

洋の東西を問わず、死ぬと大地に帰るといいます。

Earth to earth, ashes to ashesと埋葬のときにいうのは、人間は土から生まれ土に帰るという意味です。

鴨長明の「方丈記」にも、この生を「仮の宿り」と記しています。

生誕を宿屋に考えるなら、生きている人間は、生誕の宿から終焉の宿にたどり着くまでの旅をする旅人になります。

このように老荘の死生観は、円周の周りを回るように、宿屋という原点から生まれ宿屋に帰っていく旅、つまり回帰運動として生死を捉えます。

宿屋は、生命を生んでくれた自然です。

原点に戻れないと自分を生んでくれた自然に対する恩返しができなくなる。

ひとが亡くなったとき、土葬や水葬や鳥葬をするのは、肉体を自然環境において分解し、自然に帰す意味がある。

現在のお墓は江戸時代の檀家制度に端を発します。

キリスト教弾圧のため、個人と寺をひもづけて、キリスト教でない証しを求めました。

死んだらその寺に墓を立てたのが、現在に至っています。

現在では、火葬して壷にいれて埋葬することが多く、土から生まれても土には帰れず、家を失う者になっています。

老荘思想から言えば、火葬後の遺灰は散骨して自然に帰すのが、回帰運動を完成させるという意味で道にかなうといえます。

私も、回帰運動の中に身を置きたいと考えています。

荘子もまた、人間の死生は昼夜のごとき、春秋のめぐるがごときといいます。

現代は死を忌み嫌う風潮がありますが、身近なものです。

季節がめぐるように後ろからやってきます。

徒然草第155段にも、「死は前よりしも来たらず。かねて後に迫れり。」と書かれます。

家を失う者にならないように、心の準備をしておきましょう。

 

有無相生

 

 

戻る