老子小話 VOL 1108 (2022.02.05配信)

死生命也。

其有夜旦之常、天也。

人之有所不得與、皆物之情也。

(荘子、大宗師篇)

 

死生は命なり。

其の夜と旦(あさ)との常あるは、天なり。

人の与(あず)かるを得ざる所あるは、皆(すべ)て物の情(すがた)なり。

 

今回の言葉は荘子大宗師篇よりいただきます。

大宗師とは、大いにたっとぶべき師、つまり道のことです。

「人間の生死は自然の理法である。

夜と朝が繰り返されるのは自然の理法であるのと丁度同じである。

人間の力ではどうしようもない自然の理法に支配されているのが、万物の真相である。」

旦は朝であり、日が一(地平線)のうえに昇ることを表わす象形文字になっています。

この言葉のあとに、人間は自分を産んでくれた父を敬愛し、自分を治める君子に対し命を捧げることをいとわないのだから、君子を含めた万物を支配する自然の理法を敬愛しこれに従うのはいうまでもないと続きます。

そして、最後に「わが生を善しとする者は、すなわちわが死を善しとする所以なり」で終わる。

人生のありがたさは自然の理法に支えられて生のひとときを楽しむことができることだと、この言葉は教えてくれます。

そのように人生を理解したとき、生を肯定できるようになり、死を肯定できるようになる。

人間は昼間の疲れを癒すために夜寝る。

寝ている間は死んでいるのも同然である。

寝ている間に死んでしまえば、苦しむことなく生を絶つことができる。

しかし、自然の理法は、生の片時に心身を休めるために睡眠を与えてくれる。

コヘレトの言葉にも、「働く者の眠りは快い」とある。

さらに、「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で行くのだ」とある。

人間がわざわざ自分で生を絶つまでもなく、大塊(道、自然の理法)は最終的に生の疲れを癒すために死を与えてくれる。

荘子の「わが生を善しとする者は、すなわちわが死を善しとする所以なり」の前には、「大塊は我れを息(いこ)わしむるに死を以ってす」

が語られる。

死生観は、荘子も聖書も似ているところがあるようです。

 

有無相生

 

 

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