老子小話 VOL 1107 (2022.01.29配信)

塞其兌、閉其門、終身不勤。

開其兌、濟其事、終身不救。

(老子、第五十二章)

 

その兌(あな)を塞(ふさ)ぎ、その門を閉ざせば、終身勤(つか)れず。

その兌を開き、その事を済(な)せば、終身救われず。

 

今回の言葉は老子よりいただきます。

今朝たまたま、Youtubeで養老先生の著書「半分生きて、半分死んでいる」の話を聞いていて、頭に浮かんだ老子の言葉でした。

先生の話は、最近のひとはSNSの反応を余りにも気にしすぎていて、疲れ果てているというものでした。

対策は他人の反応など見ずに、自分の思うように生きましょうということです。

老子のいう穴とは、目、耳、口などの感覚器官のことです。

それらの感覚器官を通じて欲望が生じ、自分が作った欲望のために終身苦しみ救われない。

それが後半の部分。

従って、感覚器官をふさいで刺激の流入を抑えれば、終身疲れないでいることができる。

これが前半の部分。

現代人はネットを通じて外からの情報や知識には敏感ですが、自分の内からの情報や知識には鈍感です。

自分の内からの情報や知識とは、自分の心や身体から発する声です。

重病に陥るときは、必ずその予兆が身体に現われます。

それを見逃すと、取り返しのつかない場合もある。

自分の経験は自分にとって宝の知識であり、心から発する声となって現われます。

そのような内からの声を聞くには、周りからのノイズをシャットアウトすることだと老子はいう。

本は読んでいないので先生の意図はわかりませんが、「半分生きて、半分死んでいる」という言葉は面白い言葉だと思いました。

高齢になれば片足は棺おけに入っているので、確かに半分死んでいるようなものです。

しかし、生きていることを世間の動向に左右されずに自由に生きていると考えるなら、殆ど死んでいるようなひとも多いのではないかと思います。

それに比べれば、半分生きているだけでも幸せです。

完全に自由というのは難しいですから、半分死ぬことを前提に生きれば気が楽というものかもしれません。

感覚器官を休めるというのは、半分生きるために不可欠なことなのでしょう。

老子の言葉からそんなことを連想しました。

 

有無相生

 

 

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