◆老子小話 VOL
1087 (2021.09.11配信)
すでに修の証なれば、証にきはなく、
証の修なれば、修にはじめなし。
(道元、「正法眼蔵」)
20年前の今日、アメリカで同時多発テロが起きました。
それを機にテロ撲滅戦争が始まり、テロリストをかくまうタリバンを相手にアフガン戦争が始まりました。
そしてアメリカはこの戦争に敗れ、つい最近撤退することになりました。
テロの原因は誰が作ったかというと、それは大国だった米国自身であることがこの20年で証明された。
自分のイデオロギーを力任せに相手に押し付け、その力が失せたときどうなるかを中国も学ぶべきと考えます。
今回の言葉は、道元の「正法眼蔵」から選びました。
道元は曹洞宗の開祖で、北陸の永平寺を開山されたお坊さんです。
禅の修業は座禅で、これを修と呼びます。
修行して、仏の教え、つまり宇宙の真理を得るわけですが、これを悟り(証)と呼びます。
道元の思想の根本に修証一等があり、これを今回の言葉は示しています。
修行の先に悟りがあるわけでなく、修行と悟りは同時進行する。
今ここにいる自分が修行し、同時に悟りを得る。
自分が生きている限り、修行は続き、悟りも続く。
「修行によって顕現するさとりだから、さとりに際限はない。さとりの基盤に基づく修行だから、修行の始まりはない。」
この言葉で大切なのは、悟りのポテンシャル(可能性)は本来的に誰しもが持っていることです。
修行した先に悟りがあると思うと、悟りを時間的空間的に対象化、固定化して、いつまでたっても悟りは得られない。
もっと身近に悟りは潜んでいて、それに気づくための五感を準備するのが修行のようです。
赤ん坊が言葉を覚えていくのも修行のひとつかもしれません。
日々の修行によって一つずつ言葉を覚えていくのが悟りだと思います。
単語ひとつ覚えて発音し、親の反応を見ながら、使い方が正しいか否か学んでいく。
修行と悟りは同時進行するイメージがこれならつかめそうです。
日々の行動ひとつひとつが修行であり、丁寧にこなしていかなければならない。
その修行ひとつひとつから悟りが顕現していく。
そう考えると、毎日が貴重な今の連続であり、おろそかにできないなと思うに至ります。
有無相生