老子小話 VOL 1079 (2021.07.17配信)

見素抱樸、少私寡欲。

 (老子、第十九章)

 

素を見(あらわ)し樸を抱き、

私を少なくして欲を寡くす。

 

先日NHKのETV「こころの時代」で、奥田知志氏の抱樸館の番組を見ました。

奥田氏は北九州の教会の牧師さんで、生活困窮の人々に対して支援活動をされています。

抱樸と聞くと、老荘愛好家としては老子の言葉を思い出します。

樸はあらきのことで、何も加工していない原木です。

純粋な気持ちあるいはこころといってよいでしょう。

抱樸と命名した理由は、樸のとげとげしさで自らが傷つくことがあっても、それを抱く人がいればその傷は癒されるという信念に基づいているとの事です。

今回お届けする老子の言葉は、人々が慈愛のこころに立ち帰る指針を与えています。

老子の原点は不争であり、こころの融和です。

素朴で純粋な心を持ち、我欲を減らせというものです。

結局飾らない自分を知ってもらい無私無欲なら、自分のストレスも減り、他人とのぶつかり合いはなくなります。

とはいえ、それを実行するのは容易ではありません。

奥田氏が語るように、多少の我や欲が目だって問題は多いかもしれないが、それも樸として抱くことが大切だということです。

ある時はそのとげで血まみれになるかも知れないが、それを見守ってくれる存在がそばにいると信じていれば、いずれ傷も癒されていく。

それを奥田氏は、インマヌエルと呼ばれていました。

Wikiで調べると「神はわれらの傍にいる」とあり、苦悩の淵にあるとき、絶対者に見守られている感覚は唯一の救いになります。

例えばの話、乗っていた舟が沈没して大海をただ一人漂流しているとき、この感覚を頼りに頑張ることができます。

老荘愛好家にも、インマヌエル的な感覚はあります。

道という宇宙の神秘により生かされている感覚です。

新型コロナでさえ自然が与えてくれた試練として、道の恩恵のような気もしています。

新型コロナによって見えてきた課題はいろいろあります。

デジタル化の遅れは、給付金支給の遅れやテレワークの普及の遅れにつながり、最終的には経済の停滞に繋がっています。

反面、自粛生活のお陰で、家族とのふれあいや自然とのふれあいの大切さにも気づかせてもらいました。

抱樸というのは、自分の中の自然らしさを保ち続けるということかもしれません。

自然らしさを接点にすれば、自然の中でひととひとがめぐり合うように、他人との関係もうまくいくように思えます。

抱樸をもとに老子の言葉を味わいなおしてみました。

 

有無相生

 

 

戻る