老子小話 VOL 1016 (2020.05.02配信)

魚は水にあかず。

魚にあらざればその心を知らず。

鳥は林を願ふ。

鳥にあらざればその心を知らず。

閑居の気味もまたかくの如し。

住まずして誰かさとらむ。

(方丈記)

 

今回は、鴨長明の「方丈記」からお届けします。

「方丈記」は、長明が京都郊外の日野山に

方丈の庵をむすんで、何故このような隠棲に

至ったのか、その経緯、そして隠棲生活の

日々感じたことを綴った記録です。

方丈というのは3メートル四方の面積で、

4畳半弱の空間にひと一人が居住するには

必要最低限の広さといえます。

長明は、「程狭しといへども、夜臥す床あり、

昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。」

この空間は狭いかもしれないが、夜寝るには

床がひける大きさだし、昼座るには丁度よい

広さなので、独り身には過不足なしと言う。

これを評して、ヤドカリが宿を借るようだ

と言います。

それでは本題に戻ります。

「魚は水の中で生活することに飽きない。

魚にならなければその楽しみはわからない。

鳥は林の中の生活を願う。

鳥にならなければその楽しみはわからない。

閑居の楽しみもまた同じこと。

閑居してみなければ、誰がそれをわかろうか。」

禅寺の修行と同じで、禅寺に籠もり、体と心を

居住空間にあずけて修行に励まないと、禅の心

はわからない。

閑居の目的は、世間の煩わしさにもまれずに、

心穏やかに暮らすこと。

そのためには、身の回りの世話は自分でやらな

ければなりません。

そういったことをすべてこなして、あらためて

閑居の意味を考えると、そもそも仏の道に励む

ことだった。

それが閑居することに執着し、心は煩悩にはまり、

仏の道は程遠い、という言葉で方丈記は終わる。

禅寺で集団で修行しても煩悩は捨てきれない。

まして方丈の庵でひとり修行しても道を修める

ことは難しい。

しかしそれもこれも、閑居状態に身を置いて、

修行を積まないと見えてこないこと。

今もなお続く緊急事態宣言で外出自粛にある

国民は、ある意味方丈の庵の生活を強いられて

いると言えます。

与えられた閑居の状態は、今までの道とこれから

の道を考え直す、よい機会かもしれません。

 

有無相生

 

 

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