<読了日> <書籍名> <著者> <出版社> <感想>の順に並びます。

2000.1.1 歴史とはいかに学ぶか (野田 宣雄)PHP新書

<感想>
進歩史観を離れて、歴史を問い直す。歴史は繰り返すというが、そういった過去の過ちを反省できないところに、人間の愚かさを感じる。



2000.1.3 こどもの脳が危ない (福島 章)PHP新書

<感想>
きれやすい子供は、脳に何らかの機能異常があると洞察する。少年の殺人犯の精神鑑定の経験から、胎児期、あるいは乳児期に、脳が発育するときに、化学物質で機能障害が発生し、そのため、忍耐力に低下が起こる可能性があることを指摘。
ハードの障害と、育ちかた、あるいは環境の影響で犯罪は起こるが、そういった化学物質の影響を指摘した、インパクトのある本だった。単にこころのケアだけでは済まされない部分が、今後もっとデータをとって、メスをいれることが重要である。


2000.1.15 脱宗教のすすめ (竹内靖雄)PHP新書

<感想>
経済学者が、宗教をサービス産業と捉え、健全な宗教との付合い方を説く。 宗教の本質は信ずることだが、信ずるが故に、自らの行ないのみが、神のもとでは正しいと思い込むことに、間違いが起る。やっかいなことに、信ずるものを論理で説得することはできない。
宗教は、論理を超えたところにあるからである。 金が絡むトラブルに関して、宗教に対する誤まった見方を捨てるべきであるという主張に納得する。しかし、だまされるものは後を経たない。


2000.1.20 新学問論 (西部邁) 講談社現代新書

<感想>
89年初版であり、10年ぶりに読んだ。当時の西部氏の大学危機の心配がいま現実となり、おもしろく読める。ニュー保守のリーダーであった西部氏だが、ミレニアムの今、学生も先生も地に足をつけて、古典を見直し、歴史のささやきに耳を傾けるべき時であることを10年前に主張していたのは、先見の明がある。そういえば、西部氏の近刊に、福沢諭吉なる本があった。
明治維新のころの人間は何を考えたのか、学問のすすめをよみ直してみるのもいいかもしれない。


2000.1.29 夢分析 (新宮一成) 岩波新書

<感想>
いろいろな人の夢を紹介しながら、その夢がもつ意味について、精神分析学者の立場から分析している。 夢はイメージで見るものだが、その現実に束縛されない(不合理な)イメージを、他者に言葉で語ることに、夢の意味があるという。 夢を語るには、夢を記憶しなければならないが、その記憶が語らいの段階で意識により操作されないかというのが、わたしの懸念である。 しかしながら、夢というのは、きわめて論理的に構成されていることを、著者の分析により理解できた。


2000.2.5 「自分」と「他人」をどうみるか (滝浦静雄) NHKブックス

<感想>
他人の存在が、西洋哲学では、最近まで真剣な問題にならなかった点を指摘しているのは、わたしには新しかった。
デカルトから始まってカントまで、自己の認識について考察を深めているが、他人との共感、他人の痛みの認識ということについては、言及していない。 自分と絶対者の神との関係は規定するが、神が消えた後の、自分と、同じ自分をもった他人との関係について議論を始めたのは、現象学をおこしたフッサールであった。 他者への自己投入が、他人への理解には欠かせないが、自己投入がなされるべきは、他人の苦痛しかないことをこの本は教えてくれる。
幸せとは、偶然のめぐりあわせであり、さまざまな出来事の総括であり、生涯のしめくくりとしてのこと。一方、苦痛とは、どこかに局在しており、それを指し示すことができる。
われわれが他人と共生しうるのは、他人と痛みを分かち合うからであるということに共感を覚えた。


2000.2.12 反哲学的断章-文化と価値 (ウィトゲンシュタイン) 青土社 (横浜市立図書館で読む)

<感想>
メモ書きをまとめたものだが、共感できることばが多々あった。 彼が先験的に感じたことばなので、彼の哲学への心構えのようなものが現れている。 思考のプロセスの結果到達したことばなので、そのプロセス抜きに読んでいる自分には、なんのことかわからないものもあったが、印象に残ったことばは、人間とは、の部分にあげた。 彼の著作にひきずり込まれる。


2000.2.18 ウィトゲンシュタイン入門 (永井均) ちくま新書

<感想>
滝浦さんの本からの、chain-readingである。「他人」とどのようにつながるかが、テーマとなった。 言語を通じて、他人の痛みや感情を感じることができるが、感じたものが本当にそうなのか確かめる術はない。 「言語によって話しが通じるには、定義の一致ではなく、判断の一致が必要である。判断の一致とは、考えの一致ではなく、生活様式の一致である。」ということばになるほどと思い、あたりまえだとも思う。 根拠が底をつけば、慣習が、つながりを保ってくれる。 入門とはいえ、もう一度、読み直さないとわかったようでわからない。


2000.2.26 死と西洋思想 (ジャック・シャロン) 行人社 (横浜市立図書館で読む)

<感想>
有無相生のHPの中心課題である死について、先哲たちはどのように考えたのか、調べてみた。 死の問題を考えることが、哲学の始まりであることがわかった。つまり、死をどう捉えるかで、生が見えてくる。 どう生きるか、どう存在するかが見えてくる。西洋人の見方は、死を個人的存在が消える苦痛と捉え、そこから意識的にどう考えると苦痛が癒されるのかを考えて来た歴史といえる。 死というものがなかったら、世界はどうなっていたか、を考えると、空恐ろしくなった。 限りある生であるから、精一杯生きることが可能になる。 永遠に存在することが許されるなら、退屈さに飽きて、自ら死を選ぶこともありえるのではないか。 緊張なき生、危険なき生が、死を意味するとすら思えてくる。


2000.2.29 愛と幻想の日本主義 (福田和也、宮崎哲弥) 春秋社 (新聞広告で購入)

<感想>
新聞広告で面白いと思って買った対談の記録である。福田さんは文芸評論家、宮崎さんも評論家。国家、戦争、保守主義、生死などのテーマについて対談しているのだが、他人の非難批判が多く、多少議論が発散ぎみで、ちょっと期待はずれであった。
彼ら自身の主張をロジカルな構成で書いてもらったほうがよい。 結論はあたまのなかで決まっており、評価結果で、いいとか、悪いとか、言われても、そこに至る思考過程が書かれていないでので、論理の飛躍があるところがついていけなかった。


2000.3.06 倫理21 (柄谷行人) 平凡社

<感想>
これは、書店で見つけ立ち読みし、面白そうだったので買った。どうも広告だけだとはずれの場合もあるので、書店で実際みることにした。 愛と幻想の...の福田さんもいっていたが、柄谷さんは、もののいいようが、はっきり言い切る特徴がある。それだけ説得力が増すといっていたが、確かに読んでいて気持ちがよい。 講演原稿をベースに書き下ろしたそうだが、短い文章でいいきりながら、論理を組み立てていく、そのプロセスは、読んでいる方も思考過程をたどりやすい。 ことばの定義に関しても、最初に説明があり、読む人間に対し親切である。 柄谷さんのいきざまが、カントの道徳律そのものといった感じである。 思想を流行で捉えず、本質で捉えているので、本物の思想家といえる。


2000.3.14 虚無の構造(西部邁) 飛鳥新社

<感想>
これも八重洲で立ち読みし買い求めた。主題は、現代のニヒリズムの由来、構造を分析し、そこから回避するには、伝統(歴史の英知)を再認識することにあるとしている。価値の相対化は、価値の尺度を見失う原因となり、それがニヒリズムを招く。一方、伝統には、継承されてきた価値があり、それを拠り所に、あらなた価値創造があるとしている。 近代の個人主義が、自己のみに拘泥するエゴイストを生み、それは同時に他者の見解を無視するニヒリストを生んでいる。ニヒリストは、当為(ゾルレン、まさになるべきこと)を語れない不安に陥る。ニヒリストを相手にする資本主義は、貨幣利得と資本蓄積の拝金主義に走り、いずれ破局にむかう。
「現代人の不安は、自意識が、理念によって方向づけられることなく、伝統によって繋留されることなく、裸のままで、投げ出されていることからくる孤立感」としており、その不安感をぬぐうには、伝統という価値基準に照らし合わせた、個人の責任ある選択である。
自分を含め、日本全体がニヒリズムの毒牙に冒されていることを認識した。企業としては、売れるものを作るのは当然だが、伝統的な価値をお客様に提案する(それによって、伝統のよさを知ってもらう)使命があることも忘れてはいけないようだ。 西部さん流の癖のある表現が全体に流れているが、そのロジックは至ってシンプルである。 ニヒリストを読者とするならば、伝統とは何をいっているのか、もう少し具体的にいってもらえると、虚無の構造からいかに抜け出せるのかが明快になったと思う。


2000.5.6 LEVIATHAN (PAUL AUSTER) FABER&FABER

<感想>
5年ほど前に買いためていた、AUSTERの新作(当時)だったと思う。現在は、新潮社から翻訳が出ている。
Peter Aaronが語り部として、Benjamin Sachsが、モノ書きから、あちこちの自由の女神を爆破する爆弾魔になって、最後は爆死するまでの顛末を語っていくストーリーとなってる。
The Statue of Libertyがキーワードだが、Sachsが初めて抱いた、Libertyの感覚が"freedom can be dangerous. If you don't watch out, it can kill you."という、幼少期に自由の女神に上ったときの実体験が、このようなメタファーとなり、Sachsの爆死も自由を求めた結果ではないかとすら思ってしまう。
Sachsは、本当に自分がやりたいことをやってきた。たとえ、それが結局自分の死を招くことになったとしても。これは、最近見た映画、”AMERICAN BEAUTY”の主題にも通じるところがあるかもしれない。
映画の主人公は、そういう生き方に目覚めたのが死の直前1年前だったが、Sachsは、ものごころついてから死ぬまで、その生き方を貫いた。終始、爆弾とのつながりが見えなかったが、知人(Maria Turner)の友達(Lillian Stern)のかっての夫Reed Dimaggioを、偶然殺害することから、話は始まる。Reed Dimaggioの所持品に大金と爆弾があり、大金は罪滅ぼし、かっての女房のLillianに渡そうと、彼女の住まいに赴くが、そこで、Dimaggioが、アナーキストのAlexander Berkmanに関する学位論文を書いていることを知る。Berkmanの自由奔放な生き方を、Dimaggioは信奉しており、そのDimaggioの生き方に、Sachsは共感した。 .....he believed there was a moral justification for certain forms of political violence. Terrorism had its place in the struggle, so to speak, If used correctly,it could be an effective tool for dramatizing the issues at stake, for enlightening the public about the nature of institutional power. これが、Sachsの破壊活動を支えた信念だった。
 The Phantom of Libertyとしての彼の民衆へのメッセージは、「アメリカが信奉している自由こそが爆弾であり、その象徴である自由の女神を破壊する。もはや自由を偶像視する偽善者になるのではなく、拝んでいるものを実践しよう。」と喚起を促すものであった。まさしく、幼少の時の原体験のメタファーと一致する。 Sachsは、Dimaggioの生き方を記録にとどめようとするが、パニックに陥って書けない。このパニックは、自由の女神から転落するように自殺未遂を図ったときのパニックと同じである。「もう生きたくない」と結論を下す自由にうろたえるときのように。

語り部のPeter Aaronは、このSachsの生き方を記録にとどめた。偽善者としてしか生きていけない自分を認めつつ。自由の何のもとにベトナムを侵略したアメリカ、ベトナム従軍後、 Berkmanに傾倒し人生観を変えていくDimaggioの運命、徴兵拒否するが、Dimaggioと巡り会うことで、積極的な行動に変わっていくSachsの生き方、そういう生き方を知りつつ、語り部としての役割に甘んじようとするAaronの生き方が、自由という巨大な怪物(LEVIATHAN)のまわりをらせん状に昇っていくように見える小説であった。
日記では何回もいっているが、映画化しても、面白い小説と思う。


2000.5.28 私とは何か (上田閑照) 岩波新書

<感想>
4月に発行された近刊であり、書店でたまたま目にした。
現在考察しているテーマ(無)に近かったので、買い求めた。
書名は目新しいものではないが、汝との関係における我のあるべき姿について、これほど繰り返し繰り返し、重層的に、しかも丁寧に説明した本は少ない。 表現は多少抽象的であるが、著者の我慢強さのおかげで、言いたかったことは伝わったように思える。

「私(我)は、私(我)ならずして、私(我)である」が、本来的な姿である。
「私(我)ならず」という、我を無に落とすプロセスが抜けると、自閉的な自己執着となる。
このため、「私(我)ならざるもの」、すなわち、他者を私化することになる。
一方、「私である」、すなわち、私に還るプロセスが抜けると、自己喪失となる。
夏目漱石の場合でいえば、明治国家の近代化は、西欧文明を盲目的に認め、自己喪失状態にあることを、「自己本位」という言葉で、彼は批判した。 自分(自国の文化)を取り戻すことが、「私である」ための道である。 そのためには、自分を捨てるプロセス、すなわち、「私(我)ならず」が、不可避であるといっている。漱石は、これを、「則天去私(天に則り私を去る)」と呼んだ。我と汝の関係でいえば、我が、汝(他)と対面したとき、我の否定により、汝(他)のうちに、我の自己の姿を見ることが、「私である」ということになる。

「私(我)ならず」こそ、老子の無といえるのではないかと思う。私を規制する価値の外枠を取り払い,私を捨てることで、なすべきことが見えてくる。 


2000.8.2 韓非子(上) (安能務) 文春文庫

<感想>
韓非子は、筑摩叢書「韓非子」(本田濟 訳)で読んだことがある。
しかし17年前で、内容はほとんど記憶にない。
そこで、新刊文庫でもう一度挑戦した。この本の内容は、原文と対比させた訳というより、韓非子の思想を、著者なりに思想体系として理解したものを、独自の章分けで、わかり易く読者に紹介している。
17年前は、老子との関係は全く理解していなかったが、この本を読んで、韓非子の思想が、老子の思想をベースにしていることがわかった。安能氏(2000.4月に逝去)が言われるように、韓非子は、決して、老子を勝手に解釈して、政治論を構築したのではない。
中国の唯一の思想哲学としての老子における、道を秩序としてとらえ、人間界の秩序の維持のために、権力は存在しなければならないという立場をとっている。 「愚か者でも君主は、政治が秩序を必要とする限り、存在させなければならない。愚かで無能な君主でも、それなりに統治のできる、仕組みや方法を工夫しなければならない。」(第3章 揚権備内 より抜粋) この個所の、君主を日本の首相と置き換えるとなるほどと思う。 要は、首相の資質がなくとも、なんとか、それなりに政治ができる仕組みが一番大切であると。
この視点でいうと、日本の与党政府は、首相が出来る人も出来ない人もそれなり国政ができるよい仕組みにすでになっているかと思ってしまう。
 ところがどっこい、韓非子では、「火と水の間に、鍋釜で隔てると、上で水は沸騰して蒸発してかれて、火は下で燃え盛り、水が火に勝つ所以を失う」という。つまり、上(政府)が、いくらすぐれた法律を作っても、法を執行する人臣(この場合、官僚)が姦臣(業界への天下り先のパイプを持っている官僚)に靡き、現実には、鍋釜の働きをして、法律は期待した効力を発揮できないことを意味する。
いまの日本は、韓非子の懸念と同じことが起こっている。 不良債権処理の問題は、銀行とのパイプのある議員や官僚が、鍋釜の役割をしているようなものである。 このように2000年前の世界から学んだ政治論が、そのまま、現代に通用するところが面白い。
会社でいうと、上(君主)は経営者で、鍋釜は中間管理職になるが、当事者の自分としてみれば、君臣をうまく使わないと、企業はうまく機能しないと考える。そして、このことも、韓非子は、揺木矯直(君主は官吏を治めて、人民を治めない)という。
政府は、官僚を巧く動かして、企業経営者は、中間管理職を巧く動かして、顧客ニーズに応えていくべきだと、韓非子は言っているようだ。


2000.12.31 韓非子(下) (安能務) 文春文庫

<感想>
(上)を読んでから、4ヶ月余りかけて読んだことになる。
300ページほどだから、そんなに時間がかかるわけではない。
しかし、読書への熱意が欠けていたのか、なかなか読めなかった。
韓非子は政治論を展開するので、老子と違い、歴史上の事例を以って自論の正当性を主張する。
其の事例が細に入っているため、中国古代史の素養がない自分には壁が高かったように思える。
老子の言葉の事例(韓非子が解釈した)が聞けたのが興味深かった。
「新故異備」は、過去の歴史にならうのではなく、今という現実に照らし合わせて対策を講じるべきである教えで、過去のサクセスストーリーが現代にそのまま通用しないという、まさしくドット・コム・ビジネスのいろはが韓非子で論じられている。
「世異則事異」で、世が異なれば、事は異なるのである。
「治道」においては、解老、喩老が記され、韓非子の老子解釈が行われる。
韓非子にとって、「道」とは秩序であり規範ではない。
万物を理する(秩序づける)ものが道である。
政治の世界での理想な形は、理が政治を決めていくことである。
韓非子は、理を定めるための、組織なり、法律なり、その運用の仕方を細かく述べるが、あくまでも、政治の理想を、「必然の道」、つまり、統治者の存在すら感じないように理が定まっているところに置くところが、老子から政治の根本を倣っているところだろう。


2001.1.11 新編 東洋的な見方 (鈴木 大拙) 岩波文庫

<感想>
「日本的霊性」を読んでから、鈴木大拙氏の著書を選んで読むようになった。
この本は、新聞や雑誌に投稿した小論文を集めたものである。
その中でも、「東洋的見方」、「東洋「哲学」について」、「現代世界と禅の精神」、「日本人の心」、「東洋思想の不二性」、「詩の世界を見るべし」、「安心ー禅と念仏」など、今読んでも決して古臭さを感じさせない。
西洋で科学や哲学が発達したのは、物を二つに分けて考える(二元化)ことから来る。
観察する対象と観察する我である。 「二つに分かれてくるとと、相対の世界、対抗の世界、争いの世界、力の世界などというものが、次から次へと起こってくる。.....個は、それゆえに、常住、何かの意味で拘繋、束縛、牽制、圧迫などいうものを感ぜずにおれぬ。すなわち、個は平生いつも不自由な立場に置かれる。」(東洋的見方) これがまさしく現代の状況であり、行き詰まりを見せている。

これに対し、東洋的見方は、「渾然として一」である状態から踏み出すという。
一分一分に切り分けて分別する、数で割り切れる有限の世界から、有限の中に無限を見る世界である。 一言で言うと、色即是空となる。 有限即無限でないと、本当の自由は得られない。
日本経済は、株価の上昇下落に一喜一憂しているが、その数字の背後にある動向を全体として捉える見方が東洋的な見方といえるのかもしれない。 有限の数字に、無限の因子を見ていくプロセスだろう。

東洋哲学については、「無心」の境地を体得することから始まる。
「生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざよよき」と禅者の言葉を引く。
死ぬこととは、人間の虚偽のもとを抑えておくことである。
西洋哲学のように、分別の上に思想の殿堂を築くのではなく、無分別に生きていく中で哲理を導こうとする。 従って、哲理は具体的なものになる。

「妙」には、老子第一章の「玄のまた玄は衆妙の門なり」が引かれる。
この英訳をしようとしてはたと迷ったが、goodに行き着いているところが面白い。
善悪の善ではなく、すべての対峙を離れた絶対無比、それ自身においてある姿である。
見る者の態度によって自然に現れてくるものの姿といえようか。

「詩の世界を見るべし」には、詩がわかるとは、妙を感じて、「自然」の真っ只中で昼寝をすることと表現している。 実に巧い言い方である。 日本人には、俳句という独自の詩がある。
それを世界の魂を救う道具になるのではないかと暗示している。

この本の面白さは短文であるが、我々が忘れかけている日本(東洋)の良さを気づかせてくれる点と、それが次世代の世界に対する日本の文化的貢献に為り得ることを示唆している点である。


2001.2.3 宇宙はどこまでわかっているか (池内 了) NHKブックス (茅ヶ崎市立図書館で借りる)

<感想>
老子を読んでいると、宇宙の起こりも道のあり方とシンクロしているようだという気分に駆られる。 というわけで、宇宙論の本が読みたくなった。

 ビッグバン宇宙論というのは新聞などで知っていたが、その詳しいところは読んだことが無かったので、本書の内容は自分には新鮮であった。
 驚いたことは、人間は、X線にせよ、マイクロ波、赤外線にせよ観測できる電磁波を見て、宇宙の構造を調べているが、宇宙の構造は、見えない物質(Dark Matter)によって9割がた支配されていることである。 
 見えないものを大切にしなさいという老子の教えが、宇宙の構造にも当てはまるなんて、すごいことだ。

 宇宙の創生期は、超高温であり、すべての物質が素粒子になっていて、現在知られている4つの力(重力、電磁力、強い力、弱い力)が統一されている状態があった。
そこでは、時間、空間、物質(エネルギー)が渾然一体の状態であり、老子曰く、一の世界であったらしい。 現在の物理学は、この世界を表現する理論をもっていない。

 そこで、創生シナリオは、重力が分岐した時(ビッグバンから10のマイナス44乗秒後)から始まり、このときの宇宙は原子核より遥かに小さかったそうだ。
 それからあっという間に、宇宙は急膨張して温度は下がり、残りの3つの力が分岐し、強い輻射とともに素粒子の分化が起こってくる。 膨張につれて、素粒子間距離が広がり、素粒子間反応が止まり、反応生成物が残る。 相互作用の一番弱い、弱い力による反応が止まり、ニュートリノの海が生れる。 所謂、力の物質化が順繰りに起こった。強い力の物質化により、クォークが生れ、それらのは反応から、水素やヘリウムが出来てくる。 ここまででビッグバンから10分が経過し、核反応は停止する。 
 そして30万年かけて、輻射(光)と電子と陽子(水素、ヘリウムの原子核)はプラズマ状態から、中性の原子とそれと独立に飛び交う輻射に分離する。輻射が荷電粒子に散乱されること無く空間を進むので、「宇宙の晴れ上がり」と呼んでいる。
 つまり、当初宇宙空間に満ちていた素粒子が、宇宙の膨張とともに、原子の中に封印されたらしい。この「宇宙の晴れ上がり」から、いま空に見える銀河の星がどのように生れたかは、密度のゆらぎによって説明されるらしい。密度が高いところは重力により助長されて、物質が密集し、星が生れるらしい。見てきたような話だが、本当のところはよくわかっていない。
 上で述べた見えない物質のゆらぎを測定できないので、その働きを組み込んだ説明ができないからだ。
 しかしながら、途方もなく大きい宇宙の創生が、途方もなく小さい素粒子の世界から出発したというビッグバン理論を裏付ける観測データが多いとは言え、火の玉が爆発する以前の世界は無であったのか、そして、膨張する宇宙の外には無の世界が広がるのか、という単純な疑問が残る。 150億年の歴史を持つ宇宙の前に何があろうと、太陽が燃え尽きるあと50億年を人類の最大寿命と考え、今何をするか、つぎの100年をどうするか考えれば、われわれの時代の役目は果せたといえるのではないだろうか。


2001.3.27 月は東に -蕪村の夢 漱石の幻-  (森本 哲郎) 新潮文庫

<感想>
97年に一度読んだものの再読。
漱石の作品を読む前にこの本を読んでおくと、漱石が何を求めて作品を書いていたのかが推測できて面白い。
森本氏は、「ゆたかさとは何だろう」と問いかけ、美しい世界のことであると答える。美しさをひたすら追い求める心、美しさを充分に味わうことのできる感性、美しさを夢見る想像力、これが真の文化を作り出すという。
蕪村の生きた時代には、現代のような豊かな物資文明はなかったが、蕪村の句には、豊かな想像力の世界が広がっている。
彼の人生の取り組みは、ホイジンガが「中世の秋」で説いた第三の道(夢の道)、この世の生活を美をもって高め、社会そのものを遊びとかたちで満たそうとする道に位置付けている。そして実は、漱石の「非人情」の世界も、現実を否定するのではなく、現実を美の形に作り変えるものとし、蕪村と同じ世界を目指したと分析する。
森本氏の分析は、詳細なデータに基づき進められるので、非常に説得力がある。
蕪村も漱石も、夢と幻(夢が現実的な意識で再構成されるものと定義される)を作品にしているが、蕪村は、夢(未来)にすべての魂を託す事ができた詩人であり、漱石は、夢を捨て幻(過去の影)と格闘しているところに根本的違いを見出す。
例として、自伝的な作品としての、蕪村の「春風馬堤曲」と漱石の「道草」を対比させ、前者は暗い過去を美しい夢に変え、後者は不安と怯えが影を宿していると指摘する。

現代では、コンピュータで作成した映像で、想像力の世界がイメージとして表現できる機会を得ている。 しかし、映像は与えられるものではなく各自が作り出す、思い描くものである。
そこに、思い思いの美の世界、こころの豊かさは広がっていく。
俳句は、17文字に想像の世界を託している。
蕪村の句にはそういうカラーグラフィックの世界が彷彿として現れていることを、本書は教えてくれる。 この想像力が、われわれの現実の世界を内面から豊かなものにしてくれる。

随所に、蕪村の句がキーワードとともにまとめられているので、本書は、蕪村の句の解説書としても、充分体をなしている。 もちろん、同氏の「詩人・蕪村の世界」(講談社学術文庫)を読んでいただければ、さらに蕪村に引き込まれていくだろう。


2001.5.26 文章の話 (里見とん) 岩波文庫

<感想>
昭和12年刊行だから、いまから65年ほど前に書かれた本だ。
子供向けに書かれているので、表現はわかりやすいが、子供にはちょっと難しいかもしれない。
7章立ての構成で、文章はなぜ書くのか、どう書くのがよいかを説明している。
面白いと感じたのは、第二章 言葉と思想、第三章 自と他、第四章 自他と意思である。

「言葉は思想であり、思想は言葉である」という。
言葉に表せない思想はなく、論理的せよ感覚的にせよ、言葉に表されたとき、その人の思想となる。

次に、自分につくうその怖さを指摘する。
自分についたうそは、死ぬ最後まで非難されることは無い。
このうそを脱却するには、赤ん坊や動物がやっている試行錯誤法を学べと教える。
「だめもとで思い切ってやってみて、駄目だったら、別の方法でぶつかってみる」
自分のなかには、自(無二の自分)と他(歴史的社会的に受け継いだ素質)の両方が分けられない形にある。

イブセンの次の言葉を引用している。
You must will the things you will. (たいことをたいせよ)
......したいという純粋な感情から出てくる思いを強い意志をもって実行せよという意味らしい。
意思や行動にも自分と他が入ってきて、たいすることをたい出来るためには、知性による意思が必要という。

とかく、他人との関係を優先させ、本来的なたいを歪めることの多い自分には耳が痛い。
ということで、文は人なりで、たいことをたい出来た人の文は、一番感銘を与える。
65年の歳月を経た本だが、内容は今も生きている。
人生後半の人間には遅すぎるかも知れないが、特に若い人には、上の三章だけ読んでも損はない。


2001.7.05 人生の無常を楽しむ術 (野末陳平) 講談社α新書

<感想>
副題に「40歳からの漢詩」とあり、漢詩に現れている先人の無常感を陳平さんのドライなコメントで批評したものである。 50に近い自分としては、詩人の想いが素直に理解できる。
李白も杜甫も白居易も、立身出世の夢破れ、地方に左遷されたときの詩が、有名な詩であることがわかった。 しかし、言外に未練の情があるものもあり、そこに人間らしさを感じる。
憂いを酒で晴らしたのが李白で、楽天的なのが自分の性に合っている。
どうも酒に酔いながら詠っているので、気持ちも馬鹿でかくなっているように思える。
李白は、水面に浮かぶ月を追おうとして溺死したそうだ。
死に方も酔狂な死に方である。 

白居易の「鏡を覧て老いを喜ぶ」という詩は、元気付けられる詩である。
「生もし恋うるに足らずとせば 老いまた何ぞ悲しむに足らん
生もしいやしくも恋すべしとせば 老いとは即ち生きて時多きなり
老いざれば即ち夭すべし 夭せざれば即ち衰うべし
晩く衰うるは早く夭するに勝る」

老いとは生きてきた時間が多いだけ。
どうして悲しむことがあろうか。
老いていないとすれば早死にしたってこと。
早死にしなかったから老いたにすぎない。
歳とって衰えるのは、若くして早死にするより喜ぶべきことである。
運がよかったことを天に感謝すべきだろう。

漢詩は難しい語句が多く近づき難かったが、丁寧に解説してもらうと、詩人の素朴な感情は現代人の感情と変わりないことがわかる。
本書により、漢詩がより身近な存在となった。


2001.7.16 モリ―先生の最終講義 (モリス・シュワルツ) 飛鳥新社 (茅ヶ崎市立図書館より借りる)

<感想>
著者はモリス・シュワルツという78歳で亡くなった社会心理学者である。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹り、闘病生活のなかで、周囲の人間にささえられながら、しかも自ら生きる意味、死ぬ意味を考えた結果をこの本にまとめている。
ALSは、体中の筋肉が動かなくなる病気で、手足だけでなく、喉の筋肉も動かなくなるので言葉も離せなくなる。自分の意思は、顔の表情でしか伝えられなくなる。勿論、食事、排尿、排便、入浴すべて他人の世話にならなければならなくなる。 そんな中で患者は、自分が生きている意味が無いと感じ、絶望感に襲われる。 今まで歩けたのに歩けず、手が伸ばせたのに手が動かなくなる。そういう可能性が消えていく状況で挫折感をどのように克服するかが書いてある。
自分に降りかかった肉体の受難という現実をまず受け入れることが大切だという。
現実を直視することで、自分がそれにどのように対抗するべきか腹が決まる。
そして、どんなささいなことでもよいから、生きる目標を立てる。
さらに自分の身に対し、愛情と憐憫を持てという。
病気になるともはや失うものはないから、今までよりはるかに自由に生きる目標に向かって変身できる。
「完全に充実した生き方をするための最良の準備は、いつでも死ねる準備をすることです。 死が目前に迫ってくると、目的がはっきり認められるようになり、本当に重要な関心事がわかってくるからです。最後の時が近いと感ずると、自分にとって尊いもの、その中でも愛する者との関係にとりわけ深い注意を払うようになります。」
つまり、自分の死を反復して追悼することで、自分の生きるべき道が見えてくる。
モリス・シュワルツの話の説得力のあるのは、自らの体験を冷静な目で見つめている点にある。
患者は、自分の感情の押し殺すのではなく思う存分発現し、相手に心を開き、すなおな自分をそのまま相手に受け入れてもらう。 そのことが患者の心を癒し、そういう生きる姿を見せることで患者は、生きる意味、死ぬ意味を周りの人間に教えてあげることができる。
死は個人の行為であるとともに、コミュニティの行為である所以がわかってくる。


2001.9.02 荘子・外篇 (森三樹三郎 訳注) (中公文庫)

<感想>
荘子を読み始めたのは、HP有無相生の館に「今週の荘子」を載せるために、内容を復習するためである。
荘子への愛着は、高校での漢文でならった「胡蝶の夢」からであろうか。
それから時を隔てて、読み直したとき、自分の人生観の根幹と繋がるものを新たに見出した。
自らの運命を切り開くために自らが為すことと、また変えようのない運命に全てを託していくことの
両方の姿勢が大切なことがわかる。
老荘の思想は、無為の思想といわれるが、為す事を無くすことではなく、何が無駄かを認識することである。
あらゆることを試みて行き着く境地であり、天地自然の動きに表れている万物斉同の思想に基づく行動指針ともいえる。 秋水篇、至楽篇、知北遊篇の、生死を隔てない気の循環の思想は、斉同の根本を為すもので、区別から出発する人為の愚かしさを痛烈に感じさせる所となっている。


2001.9.19 存在の耐えがたきサルサ (村上龍) (文春文庫)

<感想>
村上龍対談集である。
2週間の入院中に読むために病室に持ち込んだ。
700ページほどの内容だが、15人の著名人との対談に別れており、しかも話し言葉で割とすらすら読めた。
対談集というのはどうも話が断片的で好きではないが、タイトルの面白さにつられて買ってしまった。
映画に、「存在の耐えられない軽さ」というのがあるが、それをもじってつけている。
村上龍のサルサに凝っているのは有名だが、どうしてなのかがこれを読むとわかる。
柄谷行人との対談で、現代におけるファシズムの台頭の可能性の議論が面白かった。
以下、括弧内はその抄録。
「戦前のファシズムの基盤は、農民と中小企業および労働者で、現在そういう基盤がないからファシズムは起こらないかというとそうではない。
1970年以後、第一次産業が没落し、第二次産業(製造業)から第三次産業(サービス・情報産業)に移行しているというが、農業や製造業に従事した人は今は土建業に従事している。
土建業は、第一次産業(土)と第二次産業の代理で、国家の公共投資に依存し、政治家も官僚もそこに関係する。もしここで、これを切り捨てるとなると、土とか労働という概念が別の形、つまり、日本の文化的同一性という観念で出てくる。
日本の戦争を肯定し、歴史教科書の改訂を叫んでいる人々が、《自由主義史観》と称しているが、背景にあるのは、市場的自由主義に対する反発である。 つまり、それによって追い詰められる土建業を中心とした政治ー経済的複合の反発で、これがファシズムの萌芽である。」

いまの小泉首相が進めようとする構造改革への抵抗勢力の構図が浮き彫りにされている。
公共投資の見直しにより国債発行を切り詰めようとする構造改革で苦しむのは、土建業を中心とする民政官の勢力である。 抵抗勢力をファシズムと直接結びつけるのは危険だが、土に関連する産業の関連者がファシズムの基盤となりえる可能性はある。 歴史が繰り返すとすれば。


2001.9.21 荘子・雑篇 (森三樹三郎 訳注) (中公文庫)

<感想>
2週間の入院中に読むために病室に持ち込んだ本の一冊である。
有無相生という名前は、老子第2章から来ているが、荘子では、
有無の区別もないところに万物斉同があるとする。
しかし老子は、有は無から生じ、無は有から生じるから、そこには
有無の区別は消えるということまで言っているように思える。
とすると荘子は、老子の考えをたとえ話をいろいろ利用して説明したもの
と考えてよいのではないかと思う。
今回の同時多発テロへの対応について、荘子 第三十二 列禦寇篇から
アドバイスがある。

「聖人は必を以って必とせず。故に兵無し。
衆人は必ならざるを以って之を必とす。
故に兵多し。
兵に順う、故に行いて求め有り。」

(聖人は、たとえそれ(報復)が止むを得ない必然であっても、それを必然として肯定しない。
だから聖人には戦いというものがない。
ところが凡人は、必然でないこと(報復)を必然とし、それを止むを得ないことと肯定する。
そのために戦うことが多い。 戦いに向かって進むと、野心が膨らみ、歯止めがなくなる。)
報復は、自分が当てはめた言葉であるが、米国の対応としての報復は、世界の平和にとって、
決して必然ではないと、荘子は教えてくれる。


2001.9.26 The Music of Chance (PAUL AUSTER) (Penguin Bokks)

<感想>
2週間の入院中に読むために病室に持ち込んだ本の一冊である。
読んだのは原書だが200ページちょっとで2日で読めた。
確か「偶然の音楽」の題で和訳もあると思う。
主人公のJim Nasheが、車を運転しているときに偶然、Jack Pozziに出会うところから彼の運命が決まる。 彼の運命は、自分の選択と、どうにもならない成り行きと、偶然の音楽によって左右される。
興味あるのは、Jim Nasheの過去の生き方が将来の生き方を決めるようなところがあり、その生き方がJack Pozziの運命を決めてしまうところに悲劇がおこってしまう。
しかし、結末から振り返ると、Jim Nasheの生き方は決して暗澹たるものでなく、偶然が引き起こす人生の方向転換をギャンブルのように楽しんでいるように見える。


この間に読んだ本の感想は追い追い書き足していきます。
 


2002.12.31  一遍上人-旅の思索者 (栗田勇) 新潮文庫

NHKのTV番組を見て、一遍上人のことを知ろうと思った。
読み始めると、一遍聖絵をたどっていることがわかり、岩波文庫の「聖絵」と照らし合わせて読むと面白い。
遊行の意味が始めてわかった書である。
文章がうまく、一遍がたどった道程が情景として浮かんでくる。
行動の記録は残っているが、一遍の行動の理由を栗田氏がいろいろ予想して(当然前提となる論拠を示して)説明してくれるのがありがたい。
P323では、一遍の遊行遍歴を次のように分析している。
「時間的には、つねに、永遠の生と死のプロセスを追体験しつづけることは、決して、平坦で静止した情態ではなく、まさに有と無の運動のプロセスの「機」=はずみ、いうなれば、運動のモメントの先端に生きるという強烈な時間感覚に生きつづけること」
まさに老子の道の修行と同じ体験の結果、衆の信をつかんでいる。
そして、一遍の行動は教えの書には現れずに行動の記録に現れていることが印象的である。
言葉=書は消えるものであり、行動は残るものである。