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おちゃらけドラゴンボール学

最近,買い集めたドラゴンボールについて考えてみる。

言わずもがな,発行部数が600万部を越えていたジャンプ黄金期を支えた作品である。

故に作者は辞めたいのに辞めさせてもらえなかった感がある作品でもある。
(単行本30巻あたりから背表紙で「もう仕事をやめてゆっくり遊ばなければ!」みたいなフレーズがたくさん見受けられる/笑)

実際,ドラゴンボール終了して2年でジャンプは発行部数でも,雑誌自体が持つ勢いにおいてもマガジンに逆転される。 1)
まあ,ドラゴンボール以外にも幽遊白書やスラムダンクなどの主要漫画が終わったのも原因の一つだろうが。

幽遊白書やスラムダンクに比べ,長く続いた分,ドラゴンボールでは力の飽和というものを痛切に感じた。
※私はこのことから「上限がなく物事が際限なく続く状態」を「ドラゴンボール化」と呼ぶことがある(笑)

この弊害として,初期のキャラクターがどんどん起たなくなる。
一番の例はヤムチャや亀仙人か....クリリンは作者が愛着があったのか,天津飯を追い抜いてフリーザ編まで活躍する。
※天津飯もセル編でちょっと活躍するが。

さて,ドラゴンボールがどこで終わるのがベストだったか?と考えるとピッコロ(マジュニア)との天下一武道会終了までだろうというのは多くの人が持つ感想だろう。

このときが単行本にして17巻。
Dr.スランプが18巻で完結したことを考えれば,おそらく作者も天下一武道会の後,後日談を描いて終了という計画だったのかもしれない。

実際にはこの時点でも力の飽和は起きている(1回目の天下一武道会で亀仙人はかめはめ波で月を吹き飛ばすほど強かったのに..../笑)。
しかし,週刊連載漫画ではこの程度は許容範囲だろう。

正直,個人的には幽遊白書で仙水よりも強いのがたくさん出てきた最後の魔界編の方がよっぽどどうかと思った(笑)

ストーリー的にはベジータとのサイヤ人編までだろう。
理由は3つ。
1.悟空が強い理由がサイヤ人という存在で裏付けられる。
2.ピッコロの改心-生まれながらの悪は存在しないという観念。
3.元気玉の存在。

特に3.が大きい。(2.も重要)
この時点では悟空はベジータより能力的に劣っている。
天才と努力家の戦いという感じである。

そこで,元気玉。
「塵も積もれば山となる」-みんなが力を合わせればどんなことでも可能なんだよ〜という少年誌的メッセージである。

ここで終われば良かった。
しかし,ご存じの通り,ここでは終わらない(笑)

作者もサイヤ人編の時にはうっすらとフリーザ編(つまりさらに強い敵が現れる設定)を考えていたのだろう。
ピッコロの死によるドラゴンボールの消滅とナッパがピッコロを見て「ナメック星人だぜ」というのがその伏線。

そして,フリーザ編で強さの飽和は顕著に現れ始めた。

ベジータより強いのがフリーザだけなら許せる。
しかし,一見雑魚キャラも実はちょっと前までベジータより強かったという設定。
その後,ギニュー特戦隊に対する異常なまでのベジータの恐怖。

ある意味,「フリーザはさらに強い」ということを読者に印象づける伏線でもあるが,これはちょっとあんまりだ(笑)

その昔,地球で「俺が宇宙一だ!」と悟空に言っていたベジータが懐かしい(爆)

そのフリーザを倒すために超サイヤ人というものが生み出される。
これは意外にわかりやすかった。

フリーザが変身するように,悟空も見た目が大きく変わったからだ。

また,やっぱし主役は一番強いんだという意味でもわかりやすい(上記のようにサイヤ人編では悟空は一番強くなかった)。

フリーザ編は明らかに力が飽和しているが,この悟空の見た目の変化や主役の主役たる役割のおかげである程度許せてしまう。
正直,ここで終わればまだ....と思う(笑)

次の人造人間&セル編でそのフリーザをトランクスが一撃で倒すという描写は,力の上限を「さっきのやつより強いやつがいる」ということでしか説明できなくなった象徴だろう。

セル編はある意味,さらに長期連載するための準備話だった。

つまり,主役の交代によるマンネリ化の解消である。
この話で,主役を悟空から息子の悟飯へと移行させる。

そして悟飯は超サイヤ人を超えたサイヤ人などというわけのわからない力でセルに勝ってしまう(笑)

ピッコロ編以降,シリアスな話が続き,特にフリーザ編・セル編はシリアスだったため続くブウ編はおちゃらけた雰囲気になる(セル編でサタンというキャラを作ったのはこのためだろう)。

しかし,作者の中で悟空の存在が大きかったのか,それとも読者からの世論がそうさせたのか,悟飯は悟空を越えられなかった。
結果として,悟空が主役のような形で物語が進んでいく。

このことで作者は作品の最終的な限界を感じ取ったのかもしれない。

そして超サイヤ人を超えたサイヤ人を超えたサイヤ人(笑)という無限増殖パターンを使わざるおえないところもはっきり言ってもう限界だ(爆)
ここまで来ると変身すればいいってもんじゃない(笑)

ブウを倒すにあたって再び元気玉を使うところがサイヤ人編のときのようにせめてもの救いかもしれない。

因みに世界の人口が現世界と同じで約60億人と仮定し,個人から極限まで元気を分けてもらった最後の元気玉のエネルギーを計算してみる。
たまに出てくる一般人の戦闘力が5前後なので(サイヤ人編出だしでの農夫やセル編でのフリーザの手下が気を抑えているトランクスの気を測った数値から推定),一人あたり4前後は得られるだろう。

つまり,60億×4で戦闘力は240億のエネルギーである。

フリーザが通常状態で戦闘力50万,一回目の変身で100万以上だと言っているので(単行本24-25巻参照),フリーザの最終形態は200万-300万前後だろう。
その力の差は1万倍(笑)

人間と蚊が喧嘩してるようなものかな....(笑)

結論としてこの作品は元気玉の存在で私は結構救われた。

漫画的にも主人公が自分の力では勝てなくて,物質的なエネルギーを他人から貰って敵を倒す例は少ない。
精神的なエネルギー(例えばZガンダムの最後のように)を貰う主人公の存在は一般的であるが。

最後にこのコラム(?)をみて,私がドラゴンボールをけなしてるように感じる方へ。

鳥山明氏は既出の漫画家で1,2を争うほど上手い描き手さんだと思います。
数ある力やストーリーの飽和したジャンプ漫画の殆どが,終わりの方は「もう勘弁してくれ〜」と感じるのにこの漫画は最後までそれを殆ど感じなかった。

それが,この作品のある種の質の高さを物語ってるのだと思います。

参考文献
1) 岡田斗司夫:オタク学入門-東大「オタク文化論ゼミ」公認テキスト,新潮OH!文庫,pp.300-307,2000

◆付録 A
思ったこと1:あられちゃんは強さ的にはどのレベルなんだろうか?(笑)
地球を軽く破壊できるので,最低でも最初に出てきたときのベジータぐらいの強さはあるはずだな(笑)

思ったこと2:占い婆のとこにいたアックマンのアクマイト光線があればふとっちょブウはわからないが,フリーザやセル,ブウの最終形態は恐れるに足らず!と思うのは私だけ?(笑)
「アクマイト光線のスピードでは避けられるだろ。」と思ったあなた,彼らはプライドが高く,結構馬鹿なので(笑),「おまえにこの攻撃が耐えられるか!」と挑発すれば自分から進んでアクマイト光線に当たってくれると私は思う(笑)

◆付録 B
そんなのどうでもいい!って言われそうだけど,一応240億のエネルギーでブウを倒せるかを検証してみよう!(笑)

17巻で悟空とピッコロの戦闘力が示されており,その値は334と322。
また,18巻でクリリンが206,天津飯が250である。
共に天下一武道会では悟空およびピッコロと圧倒的な差があった。

また18巻で対サイヤ人のために修行した後ではピッコロは1220,クリリンは981である。

この時点での実力差(数値ではない実力)が天下一武道会と同じレベルだとすると,
修行前のピッコロとクリリンの差:116
修行後のピッコロとクリリンの差:239

ここで,ピッコロ(つまり強い方)の戦闘力をx,決定的な実力差が出る戦闘力の差をyとし,この力関係が一次関数 y=ax+b で近似できるとすると,y=0.137x+70.5 式(1)で y が求まる。

この式が正しいかを検証する。

24巻p.122でギニューが悟空の戦闘力が160000になったところで「そんな....」と口走る。
これを式(1)に代入すると( x が大きいので70.5は無視),決定的な力の差が出る戦闘力差は21920で,これから戦闘力が138080以下だと相手にならないことになる。
同巻p.124よりギニューの戦闘力は120000なので式(1)は値を近似できているとする。

同様に別のケースから検証する。

フリーザの最終形態は上記の通り200-300万と推測される。
仮に,250万だとすると,式(1)より2157500以上ないと悟空はフリーザに太刀打ちできない。

実際,悟空はギニューとの戦いで界王拳を使い18万まで戦闘力を上げた。
これが1倍界王拳だとすると,10倍界王拳を使っていた悟空の戦闘力は180万であり,この結果からも式(1)はある程度信頼できるとする。

この結果,セル編の出だしでフリーザを倒したトランクスの超サイヤ人の戦闘力を計算すると,フリーザが自身の言葉通り多少強くなったとしても350万程度だと推測される。

ここから単純に次々計算していく。

超サイヤ人が350万なので,精神と時の部屋で修行したベジータの力を仮にその倍の700万とする。
同様にその後,悟飯がなった超サイヤ人2がさらに倍の1400万,超サイヤ人3がその倍の2800万だとする。

悟空がふとっちょブウなら「超サイヤ人3なら勝てたかも」と言った言葉を信じるとブウの基礎戦闘力もそれと同等だと信じよう。
となるとブウの最終形態もどうやっても5000万ぐらいか....

故に240億のエネルギーだと圧勝!
そりゃぁ,影も形も残りませんわな(笑)

以上,証明終了(笑)

Thinking in the dark & light

最近,近くに(といってもそんなに近いわけじゃないが/笑)映画館ができて たまにそこに映画を観に行くようになった。
それまでは10年で1〜2回しか観に行かなかったのに, ここ2ヶ月で3回も観に行ってるので,私にとっては驚異的(笑)

ビデオだってそんなに借りて観る方じゃないのに これからもちょくちょく観に行こうかな?なんて思うようになってたりして。

まっ,根本的に嫌いではないですからね>映画
TVやビデオで観て結構泣いたりしますから(笑)

で,最近映画を観に行くようになってわかったこと。

悲しい映画では私は泣けない。

楽しい映画は思わず泣いてしまう。

どうも,ハッピーエンドで終わる映画に弱いらしい;;;;
過去に泣いた映画で,有名どころでは, 「ホームアローン2」や「ベイブ」など(笑)

特に「ベイブ」はビデオで観て泣いて,TVで観て泣いた(爆)

なぜ楽しい映画は泣けるのか....きっと気がゆるむからだと思う。
元々ハッピーエンドで終わる映画は話題が暗くならないし, リアリティさが希薄だし,社会性も薄いものが多い。

元々そういう目的で作られてるから当たり前なんだけど, エンターティメントとしてのテンションは保たれても, ある意味観ていて緊張しないし,色々考えなくて済む。
(まあ,それでも色々考える人間なんだけど/笑)

そんなこんなで簡単に最後に涙を流せるわけです,私の場合(笑)

逆に悲しい映画は観ていて色々考える。

何故,こうなったのか?
問題はどこにあるのか?
それは個人レベルではどうで,社会レベルではどうなのか?
現実性としてはどの程度のリアリティさがあるのか?

次から次へと問題点が頭の中に浮かんでくる。
結局,悲しい結末が来てもそっちの方が気になって,涙は出てこない。

見終わった後に残るのは「悲しいねぇ〜」の涙ではなく,

どこでそんな悲しい結末に至ったのか?
その悲しい結末を少しでも別の方向に向けれる手段はあったのか?
原作者の一番言いたかったことは何なのか?

そんなことばかり;;;;

涙の前に問題意識ばかりが浮かんでくる。
色々考えれるからこういう映画結構好きです。

で,そういう映画でした>「Dancer in the dark」

面白かったわけでもない,面白くなかったわけでもない, この手の映画にはありがちな評価なんですけどね,私の中では。

これ観て,このことを書こうと思ったので,一応(笑)

まあ,すぐ泣いちゃうのは,ただ単に「おこちゃまなのか;;;」 と思ったりもするけど(爆)

Creation

近年の急激なコンピュータの性能の向上に伴い,
個人が家庭でCGや3Dアニメーションを制作できる環境が整ってきた。
(なんか論文の出だしみたい/笑)

某TV局でも夜中にやってましたね,そういうものを扱った番組。
あの番組,結構よく観てたんですが,個人的には「うぅ〜ん....」なものばかりです。

CG自体には「おっ,良くできてる」と思うものは結構あるんですよ。
でも,見せ物として「これはいい」と思ったものは殆どありません。

CGというものが手段でなく目的になってる気がするんですよね。

目的にしてはいけないという意味ではありませんよ。
それを目的に技術を向上させることは,素晴らしいCGクリエータになる ということですから。

でも,技術的に上手くなっても,それがエンターテーメントとして成り立つか というときっとそれとこれとは別ですからね。

つまり大概の作品には,起承転結がないんです。
あっても起伏が小さすぎると感じるのです。

これはシナリオにもカメラワークなどの演出にも言えると思います。

なんだか手足だけが精密になって脳ミソができてないというか.....
無論,脳ミソだけが発達して,手足が動かないのも問題ですけどね。

で,最近気に入ってる番組があります。
夜中に5分ぐらいやってる「デジタル所さん」ってやつ。

これ,ちゃんと起承転結があって面白いです。
まあ,今一歩なものもありますが;;;;

こういうのを見ると,センスがあるなぁ〜とホント感心します。

こんなものを作ってみたいなぁ....
と思う手足の動かない頭でっかちの戯言です(笑)

昔を想い....今を思う

最近,ふと懐かしい漫画を買い始め,そして終わった。
ちょうど私が小学校の頃に漫画だ。

あまり誉め事を書かないので何なのかは伏せておくけど, 消しゴムでできたキャラクタグッズで一世風靡をした漫画です。
↑わかっちゃった?(笑)

子供の頃はこれを面白くてしかたなくて読んだんだよなぁ.... と不思議に思う自分がいた。

絵はあまり上手くないし,ストーリーも行き当たりばったりで粗が目立つ。
突っ込みたくなるところが山のように出てきた;;;;

でも,面白かったのよ,これが(笑)

不思議だねぇ〜;;;;

勢いだったんだろうなぁ....って思います。
まあ,これも作品として大変重要な要素ですけどね。

読み終わって残ったのは, 昔これを読んでいた頃の楽しさを思い出している自分で, 新しい何かはあまり見つけられなかった気がする。

年を取ったんだなぁ....と寂しくなりました。
成長したんだなぁ....としみじみ感じました。

そんな切ない初夏の夜(笑)

貧乏性

私は物を捨てられないんです。

基本的には貧乏性なんでしょうけどね(^ ^;)
なので,雑誌などがドンドン貯まっていきます。

先月,車を買い換えましたが,なんだか勿体なくってねぇ....
確かにボロはきてるといえど,動かない訳じゃないし, ホントに動かなくなるまで乗ってやりたいなぁ....って思うわけですわ(笑)

あと物に情が移りやすい性格なんでしょうね。

なんか,最後まで見取ってやれなくてごめんね.....って感情もあります。
あと「ありがとさん」って感じもする。

あと私が捨てられない物。
貰い物です。

これは,もらったプレゼント自体も勿論ですが, プレゼントを包んでいた包装用紙とかまで捨てられずにとってます(^ ^;)

プレゼントってのは,どんな理由であれ,私に対しての感謝や評価の証だと 思っているので,ダメなんですよね....
....たとえ包装用紙や紙袋といえど捨てるってのは。

まあ,あんまりプレゼントをもらうことなんてないので
たくさんは貯まりませんけど(爆)

ということで,どんなときでもプレゼント受付中です(笑)

年相応

先日,所用で珍しくスーツなんか着ちゃったりして(笑), ふと思ったこと。

"スーツに合うような鞄が欲しいなぁ....(^ ^;)"

日頃,学校に行くときはカジュアルな格好をしてるから 基本的に鞄もカジュアルなものしか持ってない。

というより最近は学校に机もあるから,鞄さえも滅多に持ち歩かないけど(笑)

思うと学生なので,あまりキッチリしたものは持ってない。
スーツもそれ1着しかないしね。
(紫のスーツは持ってるけど/笑)

つい先日,研究室の後輩の格好がいいなぁ....と思って真似をして 服を買った(笑)

シャツの上にVネックのセーターを着てるだけなんだけど, なんだかかっこいいなぁ....なんて思っちゃいまして(笑)

自分でも「なかなか落ち着いた感じでいいかも!」
なんて思っちゃったりして(^ ^;)

そしたら後輩に「珍しく年齢と服装が合ってますね」と言われた(笑)

いや,確かにその通りです(笑)
反論の余地もございません(爆)

歳をとるってこういうことかなぁ....なんてちょっとしみじみしちゃって。

年相応っていうのは大切なこと。
でも,ほんの少し悪ガキであることも重要なこと。

そんなことを思ったスーツを着た日でした。

勧善懲悪

日本人って勧善懲悪ものが好きだよね。
歳をとって考えると怖いなぁ...って思うことって結構ある。

例えば「ウルトラマン」。

ウルトラマンは正義の味方で,怪獣は悪。
怪獣に人権ならぬ獣権は認められておりません。

よく考えると,怪獣には怪獣なりの地球へ来た理由 ってものがありそうな気がする。

もしかすると,怪獣の母星では,お腹をすかせた子供が パパの帰りを待ってるかもしれないんだなぁ....と思うと 殺されてやる義理はないけど,話し合いの余地ぐらいあるだろう.... と感じてしまう。

ウルトラマンはその仲介役になりゃいいのに....って思うようになった。

最近は,怪獣だから悪者っていう構図を取り払おうとする試みが 結構見受けられる。

ドラゴンクエストとかもそういう流れになった様な気がする。
(ドラクエ自体を私自身はちゃんとやったことはないんだけど/(^ ^;))

モンスターは人間の絶対敵ではなく,妥協の余地はあるということを ゲームの中に組み入れて成功した。
まあ,結局はゲームのシナリオ上最終的にはモンスターのボスを 倒す結果となるけど。

少しだけ,そういう考え方が定着することはいいことだと思う。

生きた作品

絵の巧さとその絵が生きているかは違う....と思う。

絵の巧さとは技術であり,努力によってなしえるものだと思う。
絵が生きているかはいわゆる才能の一部であり,努力の先に存在するものだと思う。

無論,才能とは努力をした結果に派生するものだと思っているけど。

他人の絵を一生懸命真似して描いていると絵は巧くなる。
書き方と同じで,上からその上をなぞるだけで自然とその絵を体が覚える。

しかし,その絵はイラストであり,絵自体は死んでいることが多い。

自分の絵ではないからだ。
自分が生み出した能力ではないからだ。

技術はなくとも,自分で生み出したものは生きている。
たとえ,どんなに技術的に下手であろうと,その絵は確実に生きている。

それを私は絵を描く技術がある程度ついてから痛感した。

自分の頭では絵が描けないことに気づいた。
自分の描く絵が死んでいることに気づいた。

コピーはいくらコピーしてもオリジナルを越えれない。
たとえ,そのコピーがいくら精密であろうとも,精巧であろうとも。

逆にオリジナルはどんなに雑であろうとも, それを生み出すために作者が努力すれば それが作品に生きてくる。

その作品は作者の一部だから....作者の想いが生きている限り その作品は死なないし
例えば,その作品の意図と違う方向に作者の想いが移動しても, その作品は生き続けるだろう。

それが絵であろうが,曲であろうが同じだろう。

シェンキャットは,自分の意志で生み出した。

技術は全然追いついていないが 過去,私の描いた絵の中では一番輝いていると思う。
一番生きていると思う。

だから,シェンキャットを描いていると楽しい。
絵や構図がうまくいかないと それを改善するのがまた楽しい。

自分の作品を生み出せた自分が少し嬉しかったりする(^ ^;)
少しぐらいは,絵心があるのかな?なんて錯覚したりする(笑)

言うは易し....

感動する映画
これには2タイプあると思う。

「思わず泣いてしまう映画」と
「気づいたら泣かされていた映画」。

前者には結構出会っているけれど(涙もろい人間なもので/(^ ^;)
後者には,まだ1回しか出会っていない。

その映画は「シンドラーのリスト」

これを見ていて,知らない間に涙を流している 自分にびっくりしたのを覚えている。

実際に涙が出だしたのは,有名な台詞
「この金バッチを売れば,あと一人助けられた.... 私は努力を怠った。」
というところだと思う。

この台詞,本当にオスカーシンドラーが言ったかどうかはわからない。

「板垣死すとも,自由は死せず」
と同じ類のものかもしれない。

実際,本当に言ったかどうかは大した問題ではないと思う。
誰かにそれを言ったと言わせたことが重要だと思う。

言うは易し,行うは難し。
されど,言わせるはさらに難し。

誰かに受け継がれる,語り継がれるようなことをしたことこそに 価値がある。

漫画学

”また漫画なんて読んで”っていう人がいる。
でも,私は読んでるのならいいと思う。

眺めてるだけなら,確かに時間の無駄かもしれないが....

活字を読むことは大概褒められる様な気がする。

活字を読むことと漫画を読むこと。

活字が漫画より優れている点は,

漢字を覚えること
漫画よりある意味で想像力がいること

だと思う。

漢字を覚えさせたいのなら, 確かに漫画は役不足だろう。

確かに活字より具体化された漫画では, 場面を想像する能力は養われにくいかもしれない。

でも,漫画を読むこと自体は無駄じゃないと思う。

私は漫画からいろんな事を学んだと思う。

登場人物の行動・考え方。
そして,彼らを取り巻く環境から。

漫画は,漫画家のある種の哲学が入ったアートだと思う。
要するにそれを感じ取れるか否かだと思う。

それを感じ取れたとき,漫画は立派な読み物だと思うし, どんなものより楽しみながら, 何かを学べる教科書になりうると思う。

引き継がれる意志

少し前,最近お気に入りになった漫画 JOJO(第5部からは GIOGIO らしい)の奇妙な冒険が 連載を終了した。

ストーリー的に好きだったのは第3部まで。
第4部は,スタンドのバラエティが豊富になって 対決そのものが面白かった。
それに比べると,ちょっと第5部は今一歩盛り上がりに欠けるかな と思うのだけど,一番心に残ってるシーンは第5部にある。

その話は単行本第59巻。
”今にも落ちてきそうな空の下で”

この話は,主人公側の死んだ仲間の一人の 回想シーンがメインなのだけど, その中にとても印象的な言葉が出てくる。

”意志は引き継がれる。大切なのはそこなんだ。”

というもの。

”結果だけを求めるのではなく 大切なのは真実に向かおうとする意志が必要”

私は,結果は必要だと思うけど,この言葉には共感できる。

自分の信念。

それが正しいかどうかは別として, たとえ,自分がそれを実現できなくても, それを貫こうとする意志があれば, 誰かがそれを感じとってくれるかもしれない。
それを自分の代わりに実現してくれるかもしれない。

だから,誰かが引き継ごうと思えるような 自分の信念をもって生きていきたいなぁと思う。

因みに,私は第3部のイギーが死ぬシーンで
思わず泣いちゃいました(笑)。

個人的な英詩の楽しみ方

英語の歌詞の私なりの楽しみ方。

それは,聞き取れる単語と, 知っている範囲の文法やらを用いて 勝手にその曲のイメージを作り出してしまうこと。

あんまり英語は得意じゃないけど, 聞き慣れた単語("Love"とかそのレベルです)は> 聞き取れるから それを元に自分自身で作詞をしちゃいます。

私は,特に個人レベルでは,歌詞で名曲ができる と思っています。

勿論,メロディーのみでもいい曲はありますが。

だから,曲が標準以上であれば,空想の歌詞で それが名曲になってしまうことがあるのです。

そして,自分の歌詞にある程度満足したら 本当の歌詞を見てみる。

そしたら,”へぇ〜,こんな歌だったんだぁ” とそれはそれで楽しめる。

二倍お得です(当社比/笑)

だから,私は自分の曲は英語で 歌詞を書きたいんですよね。

それはつまり,英語の分かる人に聴かせるためではなく, 英語を聞いてもあまりわからない人たちのため。

だれかが,その人自身の作った歌詞で感動できて, そして,私の作った本当の歌詞で感動してくれたら 最高だろうな
と思いながら曲を書いております。

そのためには,私がもっと英語を勉強しなけりゃな(^ ^;)

私のポリシー

”やることやってりゃぁ,まあどうにかなるでしょう”
これ,私のポリシーの一つです。

こう思っているので,私は試験などで あまり緊張したことがありません。

勿論,適度に緊張はしますが....

テストの緊張よりも,前の日に
受験票は持ったか?とか
筆箱,鞄にちゃんと入れたっけ?とか
テストの開始時間,間違ってないよなぁ....とか
の方が心配な小心者です(笑)

しかし,私は,過去二回,自分でいうのも情けないですが, 人生を左右するかもしれない試験を落ちています。

一つは高校入試。
一つは就職試験(高校の時)。

どちらも力及ばず,第一志望に落ちてしまいました。
高校の時は,高専に行きたかったのですが,失敗。
普通の公立高校に通いました。

高校が工業高校だったので,卒業して,就職する予定でしたが, その時,就職試験に落ち,運良く大学に合格しました。

中学の時,自分のレベルよりちょっと高い高専を 目標にしたお陰で,高校では,そこそこの成績を 修めることができました。

高校の時,まあ,適度に勉強したお陰で, 就職試験に落ちた後,大学への方向転換が可能になりました。

どちらも,望んだ道に進めませんでしたが,
今はとっても満足しています。

あとで楽をするための,今ちょっとの努力。

まあ,思っていてもなかなか実行できないのですが, これを頭の隅に抱えて,日々生きております(笑)

怖い映画

昨日,”スターシップトゥルーパーズ”なるビデオを観た。

この映画むっちゃくちゃ怖い。
怖いのは,出てくるエイリアンでもなく, ストーリー展開でもなく, これに出てくる人間の価値観。

これに出てくる人類は,いわゆる善玉。
これに出てくるエイリアンは悪玉。
勧善懲悪ってやつです。

しかし,どうみたって人間の方も十分悪人だぞ,これは!

この映画で,エイリアンに生存権はありません。
勿論,エイリアンも人間を殺すけど,自分の星に 攻め込まれているので,ちょっとは正当防衛性あり。
しかし,人類側は攻め込んで,殺しまっくって, その上,最後に人類側が完全勝利しちゃうんだから, さらにタチが悪い。

敵の大ボスを捕まえて,和解するのならまだわかるのだけど.....
最後のあの台詞はないでしょう....おいおいって感じです。

歯向かうものは皆殺しの理論です。
なんとも某国らしい....

しかも,観てない方はわからないでしょうが, ”おいおい,これはどっかの軍隊の入隊促進ビデオかい!” と思わせる内容。

なんだかなぁ,この映画。

いくつもの価値観,いくつもの信念の中で,
どれが”善”で,どれが”悪”って縛り方ではない世界。
見方によっては,どれもが”善”であり,どれもが”悪”になる。
そんな世界で葛藤する登場人物達。

そんな世界観をこの手の映画に求めちゃ....売れないのかね(爆)

議論するの定義

”議論する”,”討論する”とはどういうことだと認識していますか?
私の場合,”議論する”とは,
”自分の意見を主張し,相手の意見を理解する”
”自分の意見の欠点を理解し, 相手の意見にそれを補える要素がないかをさがす”
事だと思っております。

だから, ”相手を自分の意見に屈服させること” と考えている人とは,私は議論できません。

これは,私の認識違いかな?

最近TVで討論をしているのもを見ていると, ”おいおい,ちゃんと人の話を聞けよ!” と思うことが多々あります。

また,無理に結論を出そうとする司会者とか....
君ら7〜8人で結論が出るなら,社会問題にならないって! とよく思います。

コメンテータがお互い,意見を言い合い, そして,それを聞いた人達が,各々で判断する, 自分の意見と照らし合わせる, それでこそ有意義な議論と言えると思います。

自分の意見を持つこと。
その自分の意見の正しさを信じれること。
そして,ほんの少しその正しさを疑えること。

これが重要だと思います。

自分の意見の正しさを疑えないことは, とても危険なことだと思いますから。

話がちょっと飛躍しますが,戦争をしている人たちは, きっと自分たちの正義しか信じていないからこそ, できるのだと思いますからね。

お化けのお話

今回は私のお化け学です(笑)
読んだ後に ”眠れなくなったじゃない!”って苦情はなしです(笑)

そんな,怖いことを書いてるわけではないですが, ”かっ帰るぅぅ”と思った方、脱出!!!

みなさん。お化けを怖いと思います?
私,怖くないんですねぇ。

そりゃ,暗い部屋で振り返ったら, そこに,お化けが立ってたらビックリしますよ。

でも,ここで,よく考えてみましょう。

そこに見たことのない人(生きてる人間ね)がいても,ビックリしますよ。
もしかすると,そっちの方が怖いかも。

で,なんで,お化けが怖いか考えると, この世にいないはずのものがいるから怖いんだぁ
といつからか思うようになりました。

ということで,見たら(私は見たことないんだけど) 
”いるんだ〜,本当に”って思えばいいんです。

この世にお化けという生物(?死物)がいるとわかってしまえば, 犬ちゃんや猫ちゃん,人間と同じ。

”なんで,そこにいるの?”, ”どうやって,ここに入ったんだよぅ”とは思うが, 怖いと思う必要なし。

っていうか,いるんなら話してみたくない?
色々訊きたいじゃないですか。

”感覚はあるのか?”とか, ”壁すり抜けれるの?”とか, ”どういう原理で体ができてるの”とか。

お化けが存在する=未来は私たちもそうなるってこと。
知っておかないと,何十年後に死んでから苦労するかもしれないでしょ。
その時,出来るだけ楽したいと思いません?(笑)

さて,私の戯言を読んで,お化け,怖くなくなりました?
そんなで,怖くならないなら苦労しないって?
ごもっとも(笑)

見えない絆

巡り会うべくして巡り会ったのかな?と思ったことはあります?
実は,私はあります。
相手は,シェルさん(笑)
でも,本気で思っております。

シェルさんは私の18歳の誕生日に,あるお宅からいただいてきました。

私たちがそのお宅についたときに,私たちのもらいたかった猫が, 他の人にもらわれていき,かわりにシェルさんをもらってきたのです。

シェルさんはいわば本命ではなかったのです。
しかも,シェルさんが女の子ということもあり,実はあまり, 私は乗り気じゃなかったのです。

そんな私に,”犬派”の両親が珍しく, ”メスでもいいじゃない” と言ったので,結局,シェルさんをもらって帰ったのです。

シェルさんは過去もらってきた他の猫と違い,はじめからなぜか 私に懐いていました。

もらってきたその日に,シェルさんは2階にある私の部屋まで来ました。

そのころの我が家の階段は,少し急なこともあり,子猫が上るには 少しきつく,過去,子猫が,もらってきたその日に,2階まで 上がってきたことはありませんでした。

その少し急な我が家の階段を,1段1段,一生懸命上がってきたのです。
そして,私のベットの下で眠りました。

あまり乗り気ではなかった私に,なぜかすぐに懐き,後をヨチヨチと ついてきたシェルさん。
シェルさんは,そのとき,私に何かを感じてくれたのかもしれないと, それから少し経って思うようになりました。

”見えない絆”

そう言うと,陳腐に聞こえてしまうかもしれませんが,
私はそう思いました。
私が,珍しく ”見たことのないもの” を信じています(笑)

もらって帰る途中の少し暗い車の中,私の膝の上で瞳を まん丸くして私を見ていたシェルさんの顔。

写真には撮っていないけど,きっと私は一生忘れない。