最年長プロスキーヤー 三浦敬三

 三浦敬三氏(SIA名誉顧問)、私が憧れるスキーヤーの一人です。
ご存知三浦雄一郎氏の父でありモーグル界の三浦豪太氏(リレハンメル・長野五輪日本代表)の祖父です。

まもなく100歳を迎える三浦氏は、今だに年間120日の滑走を数え年間8か国は出向き整備されていないゲレンデ、山の斜面を滑りクレパスを越えて滑走するという。 
それもただ自分で滑るのではなくツアーのガイド役やスキー教師としてツアーをリードしていくのです。 

 SAJ(全日本スキー連盟)の大先輩であるM氏(60代半ば)が以前パーティに参加して三浦氏に会った時のエピソードをお話しましょう。
 パーティの席でM氏は三浦氏に「おいくつですか?」と尋ねられ「60代半ばです」と答えたそうです。すると三浦氏は「お若いですね、羨ましい!これからナイターご一緒にどうです?」と誘われたそうです。
M氏は冗談だと思い「いいですね」と答えてしばらくみんなで楽しくお酒を飲んでいたところ何と1人ナイターをしている方が・・・そう三浦敬三氏だったのです。周囲は驚いたそうです。
以前からファンでしたが私はこの話を聞いてさらにファンになりました。これぞ生涯現役の姿です。
ちなみに、私と同じ新潟県出身のジャイアント馬場さんも60歳を過ぎてなおリングに上がりつづけ生涯現役を通した偉大な方です。本当に好きだから続ける、これは生涯スポーツの原点ですね。

三浦敬三氏 三浦氏の顔にはシミ一つありません自家製の栄養ドリンクを研究して飲みながら近くの公園をトレーニング場に見立て自分で工夫しながらトレーンイングを行う。トレーニングの内容もユニークなものばかりです。マテリアルのテストも怠り無くテスターとしての実績も高く評価されています。99歳のスキー教師は絶えず進化して偶然に手に入れた健康や技術などないということを教えてくれます。
私はまだ30代のヒヨッコですが今年に入って大好きだったタバコをやめ(それまでは1日1箱ペースで吸っていた)お酒も少し控えるようになりました。大好きな趣味を楽しく行うためには自分にとってそのほうがいいと考えたからです。
私は気づきました。そう、若さとは年齢ではなく情熱であり明日のことを考えると眠れないくらい楽しい趣味や仕事をもっている人、少年の心を持っている人ではないでしょうか。

「自然なスキー」ひょっとしたら三浦氏よりヒントをもらったのかもしれません。

※2006年1月5日惜しまれつつ他界されました。
心からご冥福をお祈りするとともに、私もスキー教師のひとりとして三浦先生の意思を受け継ぎ更なるスキー界の発展に少しでも努力していきたいと思います。

「1本足で日の丸を背負った男」 目黒正巳氏 (元パラリンピック日本代表、全日本身体障害者スキー協会会長)

 目黒正巳氏目黒氏 昭和19年4月11日 新潟県長岡市に生まれる。
19歳の時不慮のオートバイ事故で左足を複雑骨折、骨折から化膿し3度に渡り左足を切断、3度目は大腿部を切断して九死に一生を遂げた。
まだ若かった目黒氏は担当医を当時恨んだという。「あの時もしもっと・・・」
身体障害者となった目黒氏とスキーとの出会いは意外なほど遅かった。

 当時まだ障害者のスキーなど目黒氏さえも知らずにいた。若い目黒青年は自分よりさらに体のハンディを負った人の為にボランテァに取り組んでいた。
35歳の時に転機が訪れた、長野県竜王スキー場で身障者のスキーを行っているという噂を聞きつけた目黒氏は早速出向きスキーに興味を覚える。
「他の人にも見せてあげたい、そのためには先ず自分がやってみよう!」みよう見真似で後の日の丸を背負うこととなるスキーがスタートした。
並大抵の苦労ではなかった。着替え、スキーを持っての移動、アウトリガー(ストック代わりの先にスキーがついた杖、これで舵を取る。)がまだ無かったスキー、想像を絶する苦労だったという。
35歳という年齢は始めるには早いとはいいがたかった。(今の私と同じ年なのでよくわかる、決して若くはないのだ・・・)
持ち前の負けん気の強さと死にもの狂いのトレーニングで日本のトップに上り詰めSL(回転)、GS(大回転)、GSL(スパー大回転)、DH(滑降)の4種目の代表となり晴れて第3回オーストリアインスブルック大会に出場した。オールラウンダーとして出ることほど大変なことはない。健康な人でさえ移動とうで大変な負担になるというのに・・・
パラリンピックにて
初参加の目黒氏は世界と日本のギャップをいやというほど感じることとなる。実力差はもちろんのこと当時から外国の選手はスポンサーがついている選手もいたという。それに対し日本は旅費さえも自分で工面するしかなかった。
あまりに違いすぎる環境・・・

大会後、目黒氏のトレーニングはさらに厳しいものになった「世界と戦うには自分を磨き上げるしかない!」次のパラリンピックに向け更なる氏の挑戦が始まった。やれる事は何でもやった。

トレーニングが実を結び再び目黒氏は4種目で日本代表となりオールラウンダーとして世界の舞台に戻ってきた。
結果はSL(回転)の18位が最高だった。

やれることは全てやった悔いの残らない大会だった。

全日本のコーチとして

 選手生活にピリオドを打った目黒氏は全日本のコーチとして次世代の選手を育てることとなった。
障害を持っても甘えは許されない、「選手は自分で出来ることは自分ですべき」
世界との壁をいやというほど感じた目黒氏は若手に対しても厳しい存在だった。
「後悔を残させてはいけない、ガンバッテ欲しい」その思いが氏を動かした。
自分が積極的に一般の人と話し少しでも障害者のスキーに興味を持って欲しかった。
リフト係のおじさんからリフトに同席した一般スキーヤーまで声をかけた。
 自分の時には誰もいなかった・・・しかし今の若手には自分がいる!
「私は仕事とスキーなら迷わすスキーを取りましたよ。」胸を張って私に答える目黒氏・・・
瞳は少年のように輝いていた。

「今振り返って見て正直、障害をもってどうでしたか?」恐る恐る聞いた私に
「良かったですよ、ヘイヘイボンボンと暮らしているのと違い、私にはスキーがありましたから」
「頑張れば何でもできることを学びました。そういう経験してる人少ないから」
「あなたも指導員ならわかってくれますよね」笑顔で私がうなずくと優しい目黒氏に戻っていた。

「死に損ねた私です、社会に貢献できたら、生涯スキーは続けます。」
「体が動かなくなるまで・・・」

家にお邪魔すると玄関にチェアスキーが置いてあった。
目黒氏はチェアスキーにはのらないはずだが・・・
おそらく若手に買ったものだと思う。
最後まで熱く優しい人だ。

無理に取材をお願いしてよかった。「諦めてはいけないのだ!」


目黒氏と