「M」
第14章 side-B
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(ガンッ!!)
こぶしが机を叩く音が研究室に響いた。
隣の机の上においてある金魚鉢で水が激しくしぶきを上げ、中で一匹だけ泳いでいる小さな金魚が驚いてあわただしく動いていた。
『上坂か・・・・あいつめ!』
教授は机の上のこぶしに力を入れて怒りを表している。
この世界に戻った私が状況を話したのだ。
彼がm世界に侵入していること。そこで私と同じように人間の体となって行動していること。そこで消去シールを使って向こうの世界のオブジェクトを消していること。そして今は・・・・・・・私の仲間を消すことを楽しんでいること・・・・・。
『確かに誰かがシステムに干渉しているとしか思えなかった。しかしそれは外部からなんらかの方法でmシステムのデータにアクセスしているだけだと思っていた。しかし・・・・自らリンクインしているとは』
教授は語気も荒くそうまくしたてる。
『でも教授。リンクインカプセルはここにしかないのに何故・・・・』
そうなのだ。m世界にリンクインするためには今私の横にあるベッドサイズの巨大な専用システムが必要なはずなのだ。
『他所にもあるということだろう』
教授はこともなげにそう答えた。
『これがですか?』
私は驚いて隣のリンクインカプセルを見る。
『このリンクインカプセルは何も私の専売特許ではない。というよりもむしろ、帝都大の桜木が開発しているシステムを借りてきたようなものだ。だからこのリンクインカプセルのハードについては、帝都大にいくつかあるし、それに他にも同じような研究をしている場所にならあっても不思議ではない』
『それを上坂・・・さんは使っていると・・・・』
正直あんなやつは呼び捨てにしたいのだが、一応先輩であるので教授の手前「さん付け」で呼んだ。
『あぁ・・・・そしてmシステムと奴の、上坂の脳とのデータのやり取りはきっとネット経由で行っているのだろう』
『そんなことが可能なのですか?』
『・・・・・可能だな』
少し考えた後に教授はそう答えた。
『脳とのやりとりに必要なデータのサイズというのは、実は想像以上に小さいのだよ。高速直接接続でなくても、それこそ商用ADSL回線程度でも十分だ』
『そんな原始的な方法で・・・』
私は驚きを隠せなかった。そんな簡単な方法でこのシステムにリンクインできるだなんて。
『原始的だがな・・・・だが普通はこのシステムに割り込むなんてことはできないはずなのだ。外部のネットとの接続部分には
十分に強固なセキュリティがかかっているし、そもそもリンクインのプロトコルなんか一部の人間にしか理解できはしない』
『でも、上坂さんならば・・・』
『そうだな・・・・奴にとってここのセキュリティなんぞあってないようなものだし。3年前まではこのシステムの構築を手伝っていたからプロトコルもなんとか解析はできたかもしれん・・・・』
苦々しそうな表情をあらわにし、教授はいらついていた。
しかし私はと言えば、状況を話しているうちに楽観的な気持ちになってきていた。状況がわかれば、彼をm世界から追い出すのは簡単に思えたからだ。私はおもわず少し明るい声になって言った。
『でも、これで対応ができるんじゃないですか。この研究室全体をネットから切り離して孤立させればいいんですよね。
そしたら外部からはアクセスできなくなる。上坂さんもどうしようもないですよ』
『そんなに簡単なことじゃないよ』
『えっ・・・』
意外な答えに私は驚いた。
『上坂がアクセス中、つまりm世界で活動中にいきなり外との回線を切ったらどうなると思う?』
『え・・・・それは・・・・ただ上坂さんはアクセスできなくなってm世界を追い出されて・・・・・』
『そうだ。だが脳との通信中にいきなり通信が途切れるんだ。何の後処理もなくな。それは非常に危険だ。脳とは結構デリケートなものだからな。例えばそれはPCを遮断するときにいきなり電源ボタンを押すようなものなのだ。アプリケーションがそれこそ無数に立ち上がっているような状態でな』
『そんな・・・』
『実際にどうなるかはわからん。だがおそらくだが、いきなり通信を切られた脳は、その体がまだm世界内にあるものと認識したまま戻らなくなると思う。現実の世界にもm世界内にも戻れなくなる。つまり・・・・植物状態に陥る危険性が高い。いくらなんでも、そのような危険を冒すわけにはいかないだろう。いくら相手が不法アクセスしているとは言えな』
恐ろしい話だと思った。だが、まだ手はあると思った。
『じゃぁ上坂さんがリンクアウトするのを待ってそのときに・・・って事ですか』
『そうだな。それしかない。ずっとリンクインし続けるわけにもいかないからな。たまには出てきて食事を取らねば死んでしまう。
だが・・・』
そこで私にも事の難しさがわかった。
『どうやって、彼がリンクアウトしたと判定できるのか・・・・』
私はそう言った。
『そこだ。リンクアウトは正直検知するのは難しい。C14のようなリンクエラーを起こさないからだ。あくまで正常なプロセスだからな。そしてその正常なプロセスをあの世界から引き出すのは至難の技だ。システムの規模がでかすぎる』
『じゃあ・・・・こちらの世界で彼が出てくるのを待つ・・・・』
『奴はどこにいるのか知ってるのか?』
『いえ・・・でもそれは調べれば』
『家族とは音信不通らしい』
『警察に・・・・だって・・・・』
それしか手はないと私は思った。それに彼は不法アクセスという犯罪を実際に犯しているのだ。
『う〜む・・・・それしかないか。正直避けたい手段ではあるのだがな。奴の将来なんか知ったこっちゃないが、身内の恥を
晒すみたいであまり楽しくはない。私のこの研究に世間的な傷もつく』
『でも・・・』
『あぁ、わかってるよ。このまま奴を放っておけばこの研究自体に大きな障害となる可能性は高い。今は物や人を消したりする程度の小さな悪さしかしてなくても、そのうち増長して何をするかわからんからな』
小さな悪さ・・・・教授のその表現に私は少なからぬ不快感を覚えたが今は我慢した。
『警察に連絡して奴を探してもらうしかあるまい。そしてリンクアウトしてきたところを拘束してもらえばいい。不法アクセスやらなんやら理由はあるだろう。しかし、そう簡単に見つかるものだろうか?』
家族とも音信不通になっているとなると、時間がかかるかもしれない。それにたかが不法アクセスだ。どのくらい真剣になって探してくれるかも疑問だと思った。その間に、果たして何人の私の仲間が消されてしまうのか。そう思うと鳥肌が立った。なにかもっと他にいい方法はないだろうか。
その時一つの考えがひらめいた。
『教授、あの私がさっきあっちの世界で上坂さんと話した時の話ですけど・・・・』
『あぁ』
『彼は、消去シールを自分に貼ってリンクアウトして行ったって話しましたよね』
そう。一通り私と話をした後に、上坂は自分にシールを貼ってそして消えたのだ。彼はいつもそうやってリンクアウトしていると言っていた。
『理論的にはそうやってリンクアウトすることも可能だ。mシステムではリンクインしている人間とオブジェクトとを切り離すことがリンクアウトのトリガーになってるいるわけだからな。それは結局君に持たせてある緊急脱出ボタンと同じプロセスを辿るのだよ』
緊急脱出ボタンというのは、それを押せばどこからでも現実世界に戻ってこれるというボタンだ。だが私はそれを一度テストで使ったきりで、それ以降使ったことは無い。いや、持ち歩いてすらいなくてm世界内の自分の部屋の引き出しにずっとしまったままである。それは私がm世界を現実の世界と同じものとして感じていたいからだ。そのような神の手の存在を感じたくはないのだ。
教授が続ける。
『もっともリンクインは君の部屋でしかできない。だから上坂もリンクインするときには必ず君の部屋に現れているはずだ』
正直それはぞっとする話だ。
『ということは、例えば私が上坂さんに消去シールを貼って彼を強制的にリンクアウトさせたとしたら・・・』
『どういうことだ?』
『つまり・・・彼を強制的にリンクアウトさせる。そして私もすぐに同じ方法で戻ってくる。そしてmシステムと外部との接続を切る。こうすればいいんじゃないですか』
『なるほど』
『これなら警察にも届けなくても、すぐにでも彼を追い出せる。ねぇ教授。この方法で行きましょう』
もちろん私は上坂のためにこういってるわけではない。ただ、一刻も早く彼を向こうの世界から追い出したいのだ。
『それはいい方法だな』
警察に届けなくてもいいというのも教授にとっては喜ばしいことのようだった。
『ですよね』
『よし、ではこうしよう。向こうの世界とこちらの世界での簡単な通信を行う装置を作るんだ。いや通信と言ってもボタン一つでいいか。そのボタンを向こうの世界の君が押せばその情報がここの端末に伝わり、自動的に外部とのネット接続を切るようにしておくんだ。こうしておけば、君はいちいち急いで戻ってくる必要も無いし、上坂がすぐにリンクインし直そうとしてもとうてい間に合わない』
完璧だと思った。
この方法なら・・・・彼を追い出せる。そして私の世界を取り戻せる。
(私の?)
(私の世界?)
自分が心の中で思った表現に少し違和感を感じた。
『よし。話が決まれば急いだ方がいいな。今からそのソフトを組むとしよう。そうだな・・・・3時間もあればできるだろう。君はそれまで休んでいたまえ。家に少し戻るなり買い物にいくなり好きにしていればいい』
3時間・・・・向こうの世界でだと12時間くらいということか。
今この時期にそれだけの時間を留守にするのは嫌だが、でも仕方がない。
お父さんやお母さんが心配するだろうけど、それくらいの時間ならなんとか誤魔化せるだろう。
『はい。ありがとうございます』
私は素直にそう答えた。
正直、その少しの時間でもリンクインしていたいけど、でも今は教授に素直に従っていたほうがいいと思ったからだ。
3時間か・・・・そうだ。
『じゃぁ教授、私ちょっと買い物に行ってきます』
『あぁ』
教授が少しほっとしたような声だったのは気のせいだろうか。
そんなことを考えながら私は研究室を出た。
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原宿は、小学生や中学生の女の子でいっぱいだった。
カラフルな衣装を身にまとい、皆幸せそうな表情で歩いている。どっちの世界でも変わらない光景。
ただ、着ている服のブランドなんかは結構違うものだなと思いながら私は歩いていた。
m世界の方ではナルミヤの高価な服を着ている子が多いのだが、こちらの世界ではユニクロ系の派手だが安価な服の子が多い。
竹下通りを抜けて、ラフォーレ前の交差点を渡り、私はキディランドの前にやってきた。
ここが本物の梨華ちゃんと別れた最後の場所。
店内に入り、階段を登って2階へ行くと、そこはさまざまなぬいぐるみが置かれているコーナーだった。
ほんの2,3日前、梨華ちゃんとこの店に来たときとは、品揃えもレイアウトも全く変わっている。
それはそうだ。だって本質的には違う店なんだから。
だが、
『あった・・・・』
私は目当てのその人形を見つけて思わず声をあげた。
それはピンク色のうさぎの人形。梨華ちゃんが気に入っていたあの人形と全く一緒のものがそこに座っていた。
基本的に、現実の世界とm世界は、大まかな外見は一緒でも細部は全く違うものとなっている。
もっともmシステムを起動した直後は細部まで現実世界とほぼ一緒だったのだが、その後の時間の経過とともに、違う経路を辿っていったのだ。
時間の速度の差が違うだけではなく、そもそも辿っている時間そのものが違うのである。
だからこの実験を5年10年ともっと長く続けていけば、こちらの世界と向こうの世界の差はさらに広がっていくことだろう。
いや、今でもかなりの差にはなりつつあるのだ。
例えばこちらの現実世界では、秋葉原タワーという名の600m級の第2東京タワーの建設が決定され既に基盤工事が始まっている。しかし、m世界においては、環境問題が原因でその建設は破棄された。
また逆に、m世界ではこのキディランドの向かいの団地が全て取り壊されて六本木ヒルズのようなものを新しく原宿に作ろうとしているが、こちらの世界ではその計画は資金難で頓挫したという。
だから、思いついてここまで来てみたものの、同じピンクのうさぎの人形がまさか置いてあるとは思っていなかった。
なんだか嬉しくなって、思わず手にとって抱き上げる。
ずいぶん小さく感じるのは、私の身長が145cmでなく181cmだからだろう。
梨華ちゃんが嬉しそうに抱いていたシーンを思い出して、思わず顔がほころぶ。
するとそんな私を珍しそうな目で見ていたほかのお客さんと目があってしまった。さすがにちょっと恥ずかしい。
よし。
私はその人形をもってレジへと向かった。
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ビニールの袋からピンク色のうさぎがその言葉通りに顔を出している。
私はそれを腕に抱えて、表参道の坂を登っていく。
すれ違う人が、珍しそうな目で私を見る。
こんな大きな女が、かわいい顔をのぞかせた大きなピンクのうさぎの人形をもって歩いているんだから無理もない。
昔だったら、こういうのはすごく嫌いでいたたまれなかった。
だけど今の私は、人の視線が以前ほどは怖くなくなっていた。
それはもちろん、向こうの世界での生活の影響だろう。
表参道の交差点まで来たが、私は大学へ戻る地下鉄には乗らずに寄り道をしてみることにした。
向こうの世界では何度も通った道をてくてくと歩く。
そして、目的の場所にたどり着いた。
そこは、かつてモーニング娘。の事務所があった場所。
向こうの世界ではもっと大きなビルに引越しをしたけれども、こっちの世界ではどうなんだろう。
引っ越したのかな、それともまだここにあるのかな?
好奇心からビルを覗くけれども、外からではよく分からない。
正面入り口の近くにあるプレートの表札を見れば分かるだろうか?そう思って入口に近づこうとしてふと馬鹿馬鹿しくなった。
私は何をやってるんだろう?
全然関係ないじゃないの?
こっちの世界とあっちの世界は別物なのだ。
『馬鹿馬鹿しい、早く帰ろう』
私は小さくそうつぶやいて、来た道を戻ろうと振り返った。
その時、私の目に一人の女の子の姿が映った。
赤いキャップ帽を目深にかぶってこちらに向かって歩いてくる。
薄茶色のジーンズに、白のインナーと濃紺のGジャンというラフな姿で、肩には私が見たことのないスポーツバッグをかけている。
ここからでは口から下の顔の部分しか見えないし、私が馴染んでいる彼女のファッションスタイルではないけれど・・・・間違いない。梨華ちゃんだ。
私はただ呆然と彼女の姿を見ていた。
すると、彼女がふと顔を上げた。
見慣れた、向こうの世界の彼女とまったく変わらない梨華ちゃんがそこにいた。
彼女もすぐに私に気がついた。そしてあからさまに警戒心を抱いた表情に変わる。
歩くコースを私から遠ざけ、こちらをチラチラと伺いながら、歩道の端っこを歩いてくる。
私はといえば、ただ呆然と、彼女の姿を目で追い続ける。
この梨華ちゃんは本物なんだ・・・・上坂ではない・・・・そしてこの世に唯一残った梨華ちゃんなんだ・・・・。
そう思っていると、愚かなことに、本当に愚かなことだと思うが、今私の目の前にいる梨華ちゃんと、m世界での私の仲間である梨華ちゃんがリンクした。
そして、私が今腕に抱いている、梨華ちゃんが気に入っていたうさぎの人形を彼女に持っていて欲しいという感情がわきあがった。
私は彼女の方に少し足をすすめ、話しかけようとした。
『あの・・・このうさちゃん・・・・・』
だが、その瞬間、彼女は
『ごめんなさい』
と大きな声で言うと事務所のビルに向かって駆け出した。
私とすれ違う瞬間にうさぎの人形と彼女の肩が当たり、うさぎの人形が歩道をころがった。
彼女はそれを気に留めることなく、事務所の玄関を走り抜けて、エレベーターのボタンを押す。
そしてエレベータを待つ時間ももどかしいそぶりで、玄関の外の私の方を伺いつつ、やがて降りてきたエレベータにのって姿を消した。
立ち尽くす私と、歩道に投げ出されて横たわっているうさぎの人形が、ただ呆然とその様子を見ていた。
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