「M」

第13章 side-B


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それは私がまだモーニング娘。に加入したばかりの頃、つまり、このm世界で矢口真里として存在するようになって間もない頃のことだった。
私は宗像教授におおむねシステムの内部が順調であることを報告した後、一つの希望を言ってみた。
『あの、教授。嗅覚はどうにかならないのでしょうか?』
『嗅覚か・・・・やはり違和感があるかね?匂いを感じることができないというのは』
『はい。こう、どう説明していいか難しいのですが、なんていうか空気感が薄いんですね。重力はあるのに、何かこう無重力状態の中にいるっていうか。夢の中にいる感覚っていってもいいでしょうか・・・・』
実際そういう感じのなんとも表現がしがたい感覚だった。そして嗅覚がないという感覚はもちろん生まれてこの方なかったことなのでその違和感は絶大だった。
『ふむ・・・・。他の感覚はどうだ。視覚、聴覚、味覚、触覚・・・・違和感を感じるものはあるか?』
『いえ、嗅覚以外は完璧です。実際に、今私がここで感じている感覚と同じといっていいです』
『そうか。ならば我慢してもらうしかないな』
『そうですか・・・・』
『匂いがなくても具体的に困ることとかはないだろ?』

確かに具体的に困ることがあるというわけではない。
ただ、昨日の事件(昨日というのはm世界内部においてのことだが)が私の心の中で大きなしこりとして残っていた。
だから、嗅覚の問題もできれば解決してもらいたかった。そして私の中のわだかまりを消したかった。


昨日は沖縄で娘。としてのイベントがあった。
まだ春とはいえ雲ひとつ無いいい天気の沖縄。しかも野外である。
特設テントが楽屋として設けられていたが、その中はかなり蒸し暑かった。
みんなが汗を流していて、タオルで顔や首筋をぬぐっていた。
そんな中で談笑していたとき、私の周りに一匹のハエがたかり始めた。
手で払っても払っても、そのハエはなぜかずっと私にたかり続けた。
いい加減切れそうになっていたとき、裕ちゃんが
「矢口、臭いんちゃう?」
と冗談で言った。
すると、なっちや圭織もおもしろがって、
『ほんとだ〜。矢口くさ〜い』
『ははは、そうだそうだ。そりゃハエもよってくるわ』
とからかいはじめ、鼻をつまむマネをしたりしだした。

それはよくある子供のような冗談だ。みんなただ私を悪気なくからかっていただけに過ぎない。
だけど・・・・私には「におい」がわからなかった。
メンバーのみんなが臭い臭いと私をからかう中で、私はこの世界に入ってはじめて、強烈なみんなとの距離を感じていた。
私はやっぱり他のみんなとは違うのだ。この世界の本当の住人ではない。
現実の世界では感じることの出来なかった強い仲間意識を感じ始めたときだっただけに、その距離感は強烈な悲しみへとすぐさま転化した。
気がつくと私は我を忘れて号泣していた。もうパニックだった。
メンバーのみんなはわけがわからないという様だったが、それでも懸命に私を慰めようとしてくれていた。
「ごめんごめん」というみんなの声が今も私の記憶に残っている。



『嗅覚はまだ人類にとっても未知の領域なのだよ』
教授が説明を始めた。
『このmシステムは、システム内部で生成されたデータを、リンクインカプセルを通して脳に直接信号を送ることによって仮想世界を被験者に体験させているのは君も知っての通りだ』
そうなのだ。私の意識が、あの大きな筒型のコンピューター世界の中に入っていっているというわけではない。
システムが作った感覚データを私の脳が受け取って感覚として感じ、そして私が取ろうとした行動がデータとなってシステムに送られそしてシステム内の環境を再構築する。
例えば、私が歩こうとすれば、私の「歩くぞ」という考えが脳波となって現れる。その脳波をシステムは解析して「歩く」という行動データを作成し、それによって、システム内の私の体が動き、床が音を立てたり、近くにいる人間が避けたりといった環境の再構築が行われる。そしてその環境の変化が視覚、聴覚といった感覚に変換され再び私の脳に戻ってくる。
この双方向の通信のやりとりが、システム世界にリンクインするということなのである。
もちろんこんなことをするためには途方も無い速度のコンピューターが必要であるし、また、神経生理学の知識も必要になる。
だが教授はそれを成し遂げたのだ。もっとも神経生理学の方面については旧知の仲だという、帝都大の桜木教授の力をかなり借りたようだ。桜木教授もまた、神経生理学の分野では天才の名を欲しいままにしている。

『だから、君は向こうの世界でさまざまな感覚を現実世界と全く同じように受け取ることが出来る。太陽をみればまぶしい、歌を聴いて心地よい、氷を触って冷たい、肉を食べてうまい・・・・全く一緒なのだ。なぜなら現実世界のわれわれがそれを感じる脳の部位と同じ場所でそれらの感覚を感じているのだからな。リンクインカプセルのプラグが出す電磁波を脳波に変換し、共鳴法によって直接君の大脳に送り込む。だから現実に受け取る感覚の信号と全く同じものを君は受け取っているのだ』
そう、私達が現実に感じる感覚というのも、すべては結局は脳に送られてくる信号なのだ。その信号をこのシステムは状況に応じて作り、そして送ることができるのである。
『だが、嗅覚だけは他の感覚とは少し違う。君も聞いたことがあるだろうが、嗅覚は大脳辺縁系というより原始的な部位に存在し、大脳新皮質での人間的解釈を素通りして、本能に根ざした感情に直接アクセスする。これがよくない。桜木の開発した神経接続システムは大脳新皮質を必ず経由する。だからそこを素通りする感覚は制御できないのだ』
さらに教授は続ける。
『つまり、嗅覚はあまりに原始的な感覚ゆえに、人間の脳へのより深い知識が必要ともいえるだろう。無理に嗅覚へアクセスしようとすれば、人間の感情という部分への影響も加味しなければならんのだ。そこまで人類がたどり着けるのはいつの日になることやら。こんな小さな頭の中だがな、構造はこのmシステムなんか比較にならんほど複雑で高性能なのだよ』
そういって教授は自分の頭の奥をさすように、指を頭に当てた。
『とにかく、そういったわけだから、今は嗅覚については諦めてくれたまえ。それより今はシステムへのマルチアクセスの確立を
急ぎたいしな。今システムにリンクインできるのは君だけだ。だが、君だけでなく何人かの人間が同時にリンクインし、さらには
向こうの世界でこちらの人間同士が会って会話できるようなシステムだよ。どうだい。素晴らしいと思わないか』



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