「M」
第18章 side-A
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238m上空までのびる巨大な建造物の下で、彼女はただなんとなくその建造物を見上げていた。
休日の昼間だけあってたくさんのカップル、家族連れなどが行きかっている。
そんな中帽子を目深にかぶり、さらに口元には大きなマスクをして変装した彼女は、大きな広場の野外カフェブースに座ってコーヒーをすすっていた。
変装しているとはいえ、いや逆に、そのありきたりな変装が災いしているのかもしれないが、幾人かの通行人は彼女が矢口真里という名の芸能人であることに気づき、歩きながらちらちらと視線を投げてくるものや、しばらく立ち止まってじっと見つめてくるものもいた。
だが、彼女はそんなことはあまり意に介さなかった。人形から視線を浴びているくらいの扱いで、声をかけてくるものがいても冷たく無視していた。
視線を下に戻す。
たくさんの人々が明るい表情で歩いている。階段を登ったところにある六本木ヒルズのメインタワーからは、買い物袋をたくさん持った人々がひっきりなしに降りてくるし、目の前のテレビ朝日の1Fのショップブースは修学旅行の高校生達で埋め尽くされている。となりの公園ではなにやらイベントが行われているらしく、時折大きな歓声が聞こえてくる。
(えらく違うものだ・・・)
<矢口>はそう思った。
<矢口>が住む現実の世界にも、この六本木ヒルズという名の新しい商業ビルは存在する。それはこちらの世界とほぼ同じ時期に完成し同じような施設が中に入った。
だが、その後の展開は全く違っていた。こちらの世界のこのビルが成功をおさめているのとは逆に、現実の世界では大きな失敗と終わろうとしている。
当初の見積もりの四分の一程度の来場者しか訪れず、ビルの高層部のオフィス用テナントや住居は半分も埋まっていない。それどころか、その数はさらに減少の一途を辿っており、近頃では『無人の塔』などという呼び方をされて揶揄されているようだ。
この違いは世界情勢の違いにあるのだろうと<矢口>は分析していた。
現実の世界では南アジアの情勢不安が東南アジア、東アジアにまで広がり、日本の景気もさらに冷え込んでいる。
それに対しこちらの世界では、アメリカや中国の好景気に支えられる形で、日本の景気は回復しつつあった。
そんな世界情勢の差が見た目の変化に如実に現れているこの仮想世界のシミュレーションシステムに、<矢口>は改めて感嘆していた。
(ただの遊園地として使うにはちょっともったいないな・・・・)
そう考えて苦笑した。
(だがまぁ今はこれが楽しいからいいだろう。飽きたらまたその時に別のことを考えればいい)
そのとき、<矢口>の目の前に一人の女の子がとことこと歩いてきた。歳のころは3歳か4歳くらいだろうか。
目の前までやってきて<矢口>の顔をじっと見ている。テレビで見たことのある顔だと気がついたのだろう。
『いいものあげるよ』
<矢口>はポケットに手を入れて、一枚のシールを取り出した。
銀色に光るそのシールを台座からはがす。
そして女の子の背後へと回り込み、その小さな背中に貼り付けた。
女の子は不思議な顔をして振り向いて、<矢口>の方をみている。
丁度そのとき、近くの大型TVモニターを見ていた母親らしき女性が声をかけた。
『りっちゃん、行くわよ』
すると、そのりっちゃんと呼ばれた女の子は母親の方を振り向いて、テクテクとその小さな足で駆けていった。
離れていくその背中には銀色のシールが貼り付いている。
そのシールの存在に、女の子も、母親も気がつくことはなく、やがて2人は歩いて彼女の視界から去っていった。
(確認完了)
<矢口>は心のなかでそうつぶやいた。
その後もしばらく<矢口>はその場所で物思いにふけっていた。
だがいい加減飽きてきて、他の場所にでも行こうかと思いはじめていた時だった。
大型TVモニターの前の人々が、急にざわつき始めた。
何事かと目をやると、大型TVモニター上で流れていたミュージッククリップが中断され、臨時ニュースが流れ始めるところだった。
<矢口>はそのニュースをしばらく見ていた。
そして
『この姿はまずいな』
とつぶやくと、人目を避けるようにしてその場所を去っていった。
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もう何度目のことだろうか。
矢口はまたこのm世界にやってきた。
最初のころは、「におい」という感覚がないという状態にリンクイン直後はかなりの違和感を感じていたものだが、今はすっかりと慣れていてほとんど意識することはなかった。
例えば2ヶ国語をほとんど意識することなく流暢に話すことの出来る人間が、無意識のうちに言語中枢のスイッチを切り替えることができるようなものだろう。
それは、自分の身長が大きく変わっていることにたいしても同じだった。
もっとも、最近はm世界の中に入っている時間の方が圧倒的に長いため、リンクアウトした後の現実世界で、自分の身長の高さを忘れて天井に頭をぶつけたりすることが多くなっていたりはしたが。
とはいえそれも、世界間の移動による違和感を彼女がほとんど感じていないことの証拠でもある。
だが今回、リンクインしてベッドに起き上がって部屋の中を眺めた時、彼女はそこに大きな違和感を感じた。
理由はすぐにわかった。
部屋のドアが開いているのだ。
今まで何百回、いやきっと千回以上、このベッドから起き上がっているが、部屋のドアが開いていたことなど一度たりともなかった。
彼女は悲しげな表情でそのドアの付近をしばらく眺めていた。
やがてベッドを離れ、部屋を出る。
そして廊下を少し歩いたところにあるリビングについた。
リビングの中央には大きな4人掛けの食卓と、それにあわせて4つの木製の椅子が置いてある。
そして食卓の上の椅子の前には、きちんと4人分の食事が用意してあった。
何かの魚のムニエル。サラダ。お味噌汁のお椀とご飯用の茶碗は空のまま伏せてある。
さらに食卓の中央には大きなお皿に肉じゃがが山盛りにのっていた。
彼女はいつもの自分の指定席に向かった。
『これがお母さんが最近料理教室で習ってたムニエルってやつね』
そう一人つぶやく。
『さてどんなもんだろね』
といいながら、茶碗をとり、キッチンのサイドテーブルまで持っていってジャーからご飯をよそう。
茶碗を食卓においた後、今度はお椀をもってキッチンに行き、鍋の中に用意されていた味噌汁も入れて戻ってきて椅子に座った。
『いただきます』
箸を手に取り、それを持ったまま手を合わせて軽く礼をする。
そして早速メインディッシュに箸をのばす。
その白身魚を口にほうばり、うんうんとうなずく。
『おっ!うまい!!』
そういって、そのすっかり冷めているはずの魚をおいしそうに食べ続ける。
やがてご飯を一口含んでから、これもすっかり冷めている味噌汁をすする。
『うんうん』
うなずきながら食べ続ける。
『なんで肉じゃががこんな洒落たお皿にのってるのさ』
『統一感出そうとして失敗してるいい例だね。だいたいそれだったら味噌汁じゃなくてスープでしょ』
『でも、こういうお間抜けなところが好きだよ。なによりおいしいしね』
その後もそんなことを一人でしゃべりながら彼女の食事は続いた。
笑顔なのか泣き顔なのか分からない表情で食べ続けていた。
矢口は、自分の家族の最後の瞬間を見てはいない。
宗像が映像を見せてくれようとはしたがそれは断った。
自分の家族が消える瞬間なんて見たくはなかった。いや、見ることに耐える自信がなかった。
だが、いつかは見てあげなければならないとも思っていた。
それは父、母、妹が自分のことを本当に大事に思ってくれていた証拠だから。
矢口は宗像にデータの保存は頼んでおいた。そして事が済んでから見るつもりでいた。
宗像が急にm世界の人間に対する認識を改めたのは、その事が原因だった。
『理論上はありえないことなんだ・・・・』
そう宗像は言った。
彼が研究室に出勤してきたとき、彼女は部屋の机にうずくまって眠っていたらしい。
その寝顔が涙に濡れているのを見た彼は、彼女に毛布をかけてやったあと、起こさないようにと静かに作業を開始した。
だが、早速異変に気がついた。
例によってm世界内の異常オブジェクト欠損の発生を示すウィンドウが開いていた。
また上坂の仕業だろうと宗像は予想した。
だが、どうもおかしかった。
全部で5件の欠損のうちの3件が、見覚えのあるエリアコードの場所で起こっていた。
そこはこのシステムの特異点だった。
こちらの人間がリンクインできる唯一の場所、つまり矢口真里として生きている人間の部屋だったのだ。
そこに入れるのはこちらの人間だけ、つまり現在は西田か上坂だけであるから、そこで彼らのうちのどちらかが消去シールを
使ったということなのだろうが、さて何のためだ?
疑問に思った宗像がさらに調べると、彼にとっては信じられない事実が分かった。
消えたのは、矢口真里の両親と妹だった。
そして彼らは消去シールによって消されたのではなかった。
現実の世界とのゲートでもある矢口真里の部屋は、m世界の人間は絶対に入れない。
m世界の人間は、そこに入れないように作られているのだ。そこに入ることを本能的に拒否するように、そしてそれに対して疑問をもたないように個々の人間が「設定」されているのである。
そんな彼らが矢口真里の部屋に入ってしまった。ゆえにそこでシステムが例外処理を自動的に発動し、彼らを消去したのだ。
宗像は上坂が無理やり彼らをその部屋に押し込んだか何かだと思った。
そこで、監視カメラの映像を確認することにした。
この部屋だけは、仮想の監視カメラによって映像が記録してあるのだ。
宗像は、彼らが消去された時間に監視カメラ映像の時間を合わせ、その時起こった出来事を見ることが出来た。
そして宗像は、そこに自分が予想したものとは全く違う光景が映っているのを見た。
矢口真里の家族は決して消されたのではない。
「自らの意思」でその禁じられた部屋に入ったのだった。
考えられないその事実に、宗像は唖然とした。
彼が確認した映像には、m世界の時間の夜中に突然部屋のドアが開く場面が映っていた。
そして矢口真里の母親、父親、妹と思われる人間が部屋の中を覗こうとしていた。
やはり大きな抵抗があるのだろう。おそるおそる、いや必死に恐怖と戦いながら、それでもなんとか部屋の中を見ようとしている。そういった感じだった。
彼らの口が盛んに何かの言葉を発している。
音声は録音されていないが、宗像はその口の動きから彼らが何を言っているのかは分かった。
『真里』と言っているのだ。
おそらく・・・・彼女を探しているのだ。
宗像は西田の話を思い出した。彼女が所属しているモーニング娘。という名のアイドルグループのメンバーが上坂によって次々に消されている。
そんな状況の中、矢口真里、つまり今宗像の隣の椅子で寝ている西田が、リンクアウトしてm世界を去っている。
おそらく彼らは、彼女の姿が消えたことで、その一連の事件に巻き込まれたのではないかと心配しているのだろう。
そして、彼らは思いあたったのだ。この・・・・入ることのできないはずの娘の部屋に。
本能に刻み込まれているはずのこの部屋への恐怖。そして家族の身の危険という人間としての恐怖。
その2つが極限まで高まり、そして混ざり合い、彼らを半ばパニック状態に追いやっていた。
その表情は、まさに人間そのものだった。別の世界の、そして過去の映像であるにもかかわらず、その圧倒的リアリティに
宗像は恐怖していた。
そして、ついにリミットを超えた。
母親がついに部屋へと飛び込んだのだ。真里を探すために。
そしてその体が完全に部屋に入るとすぐに、システムは例外処理を自動的に、そして無慈悲に作動させた。
母親の動きが止まった。そして1秒も経たない内に、空間に溶けるようにして瞬時に消え去った。
消える瞬間、母親が自分を見たような気がして宗像はぞっとした。
母親が消えるのを見て、父親と妹も部屋へと飛び込んだ。そして1秒後には2人の姿も消えていた。
食事を取り終えた矢口は、宗像の話を思い出していた。
自分が自暴自棄になっていなければ、両親と妹がそんなめに会うことはなかっただろう。
すぐにリンクインして、家族に姿をみせておくべきだったのだ。
一瞬、自分はこの世界から逃げた。それはたった4時間だった。でも、こちらの世界では15時間が経っていた。
それは長すぎる時間だった・・・。
『結局は・・・やっぱり夢なのかな・・・』
矢口は一人そうつぶやいた。
宗像は言っていた。この世界は彼女の脳の夢を見る機能で成り立っていると。
『そうだよ・・・夢なんだよ・・・所詮は・・・・』
そういって矢口は自分を慰めようとした。
悲劇の連続に彼女の心はもう壊れる寸前だった。
なんとかして自分の心を守らないともうおかしくなってしまいそうだった。
だけどそんな風にして自分を誤魔化そうとしても、無駄なのはわかっていた。
この世界は彼女にとっては夢でも何でもない。現実そのものだった。そこでおこる取り返しのつかない悲劇も。
矢口は顔を上げた。
両親と妹の分の料理がそのまま残っている食卓と、主を失った3つの椅子。
『みんな・・・・』
じっと眺めていると、その椅子に、消えたはずの両親と妹が座って食事をしている光景がうつった。
母親の料理に文句を言いながらも、それでもおいしそうに食べている父親と妹。
母親はそんな光景を幸せそうに見ている。
(最近家族が揃って食事ってのもあんまりなかったね・・・・ごめんね・・・・)
そんな風に思いながら矢口がその幻を見ていると、母親がこちらを向いた。
そして一瞬さみしそうな目をした後、すぐに厳しい表情で矢口を見つめ返した。
『うん・・・そうだね。おいらには、まだやらなきゃならないことがある』
矢口はそう言ってから目をつむった。
そして少し間をおいてから目を開ける。
幻は消えていた。
そして椅子から立ち上がり、自分の部屋へと向かった。
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