「M」

第16章 side-A


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矢口は再び、見慣れたマンションの玄関の前に立っていた。
あの日、つい3日前のことだ、石川がこのマンションの中で消された。
そして今、今度は矢口が、もう一度<石川>を消しに来た。
<石川>を、いや、石川に成りすましている上坂をこの世界から永久に消し去るために。

だが、<石川>がこのマンションの中にいるのかどうかはわからなかった。
さっきも<石川>の携帯に電話をしたが、ただ呼び出し音が鳴り続けるだけだった。
だが、当てがあるのはこのマンションだけだ。だからここに来るしかなかった。
幸い玄関には<石川>の護衛についている警官がいた。彼らに話を聞くと、彼女はマンションの部屋をでておらず部屋で休んでいるはずだということだった。
だが上坂には、一度リンクアウトしてまた矢口の部屋を経由してこの世界に戻ってくるという手段がある。それゆえに、必ず部屋にいるというわけではないのは変わらない。
しかし、とりあえずは部屋に行って見よう。矢口はエレベータへと向かった。

その時、背後から声がした。
『矢口さん!』
聞きなれた幼い声。
振り返ると、そこには見慣れた、きれいな顔立ちの女の子が立っていた。
『亀井・・・どしたの、こんなとこに?』
いつものようにニコニコしている亀井がそこ立っていた。
背後では、亀井の護衛が、矢口や石川の護衛と合流し、何やら話を始めている。
『え〜と、石川さんに呼ばれたんです。一人じゃなんか怖いって・・・』
そう亀井は答えた。
その言葉を聞いて、矢口は背中に汗がどっとでてくるのを感じた。
(今度は・・・亀井を消すつもりだったんだ・・・・)
『それに今日は絵里オフだったし・・・矢口さんも石川さんに呼ばれたんですか?』
『あ、あぁ・・・・うん・・・・そんなところ』
もう少し自分が来るのが遅れたら・・・・危なかった。矢口は恐怖と安心の入り混じった複雑な気持ちで答えた。

『じゃぁ一緒にお部屋に行きましょ!』
亀井がそう言って歩き出す。
『だめっ!』
矢口は反射的にそう答えていた。
『へ?』
亀井はわけがわからないという顔をして足を止めた。
『亀井はだめ。おいらだけで行くから、あんたは今日はもう帰って!』
『なんで?』
『だめなものはだめっ!お願い、今日は言うこと聞いて』
『だめですよ〜、せっかく来たのに。絵里は行きますからね』
そういって再び歩き出してエレベータのボタンを押す。
『お願い、先輩の言うこと聞いて!ねっ!』それでも矢口は続けた。
『なんでですか?理由を教えてください』亀井は矢口に向き直ってそう聞いた。
『それは・・・・』
だめだ。亀井はこういうところは頑固で、納得いかない理由がない限り先輩の言うことでも引かない。
これが田中なり道重なりだったらなんとかなるのに。
そうやって矢口がいい方法は無いかと考えている間に、エレベータが下りてきてドアを開いた。
そして亀井はそそくさとエレベーターに入って行った。
振り返り、ドアの外に向かって
『じゃあ私達は石川さんの部屋に行ってきますので待っててくださ〜い』
と護衛に向かって叫ぶ。
それを聞いて亀井の護衛の一人である婦人警官が
『じゃぁここで待ってますから』
と言ってうなずいた。

えっ?いいの?ついて来ないの?
矢口は少し疑問に思う。いくら厳重にロックされているマンションの中とはいえ、石川が消されたのはそのマンションの中なのだ。護衛だったらついて来たほうがいいと思うんだけど・・・・・。
そんな矢口の思いをよそに、護衛の警官たちは談笑を始めている。
矢口は、自分の護衛も含めてだが、どうも今日に入って護衛の人たちの緊張感がうすいように思った。もっとも自分が意識過剰になっているせいなのかもしれないけれど。

『矢口さん、置いていきますよ』
そう亀井に言われて矢口はあわててエレベーターに飛び込んだ。

やがてエレベーターが上昇を始める。
仕方がない。亀井を帰すのが無理なら、いざとなったら亀井の目の前でもやるしかない。
その後どうすればいいかはわからないけど、この娘が消されるよりはましだ。矢口はそう思い、エレベーターの中で気合を入れなおした。

やがてエレベーターは石川の部屋のある14Fに到着した。
ドアが開き、亀井は相変わらず矢口に先行して歩き出す。
だが、矢口は亀井を急いで追い越して、なかば早足で石川の部屋へと向かう。
『なんでそんなに急いでるんですかぁ、矢口さん?』
亀井ののんびりした声がそういったが、矢口は無視した。
そして部屋の前にたどり着き、急いで呼び出しチャイムを押す。
すぐに<石川>が出てくれば、速攻で部屋に入り、亀井に見られることなく事を起こせるかとも思ったが、亀井はすぐに部屋の前に辿りつき矢口の隣に並んだ。
『ねぇ亀井・・・・』矢口が話しかけた。
『なんですか?』亀井が答える。
『ちょっと梨華ちゃんと2人だけで話したいことがあるの。だからお願い。ちょっとだけ外で待っててくれる?』
『え〜・・・・』亀井は嫌そうな表情をした。
『お願い』
だが、矢口の真剣な表情にうたれたか、亀井はこっくりとうなづいた。
『ありがとう。すぐに・・・終わるから』

すぐに終わる・・・・そう・・・・・すぐに終わらせてやる。相手が警戒心をいだくまえに一気に行くんだ。
シールをはって上坂を強制的にリンクアウトされて、そして即座にこのポケットの中にあるネット切断ボタンを押せば、上坂をこの世界から追放できる。もとの平和な、いや正常な世界に戻るんだ。私の大事な世界に・・・・。

だが、いつまでたっても<石川>からの反応はなかった。
何度かチャイムを押してみるが反応がない。
『亀井、梨華ちゃんに部屋に来てって言われたんだよね?』
『はい・・・そうなんですけど。おかしいですね』
その時、矢口の脳裏に、石川が消されたときの嫌な映像が思い浮かんだ。
エレベータの監視カメラが残した映像だ。
あのとき、梨華ちゃんが消されたのは部屋じゃなくてここの廊下だ。
矢口はとっさに振り向いて、周りの廊下を見渡した。まさか、どこかの陰からいきなり出てきて亀井を消すつもりでは・・・・・。
しかし、廊下に人の気配は全くなかった。

その時矢口の背後で、(ガチャン)というドアが開くときの音がした。
そして亀井の『あれ?』という声。
矢口は自分の心臓が飛び上がるのを感じた。
そしてとっさに身構えながら振り返る。

だが、そこに<石川>の姿はなく、亀井がドアのノブに手をかけてそれを倒している姿があるだけだった。
『開いてる』
亀井がそうつぶやいた。


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『そういうことになりましたので、護衛の方は今日限りということでお願いします。もちろんまた何かあったらご相談くださって結構です』
娘。の所属事務所の応接室で、背広を着た大柄な男が、統括マネージャーの山本に話していた。
『もう少しの期間お願いできないのでしょうか?事件からまだ3日しか経っていないのです。まだ怖がっているメンバーもおりますし・・・・・』
相手は警察の人間であるようだ。どうやら娘。のメンバーの警察による護衛が打ち切られるという話をしているらしい。

『すいませんがわれわれにも人手の問題もありますので、これ以上は無理です。常時の護衛が必要なら、これから先は民間の機関を使うなりしてください』
背広の刑事はそう答えた。
『・・・・・警察の方では、うちの石川の狂言というふうに断定してらっしゃるんですね?』
山本が厳しい表情で尋ねる。
『ええ。昨日もお話したように、状況から見てそうとしか思えません。石川さんが誘拐されそうになったという現場ですが、あそこに外部の人間が立ち入り、そしてこっそりとでていくことができたとは思えないのです。監視カメラに写ることなくです』
『でも、あの子はそんなことをする子じゃないんです』
『こんな時にわれわれの護衛を意図的にまいて、どこかへいってしまうような子がですか?』
『それは・・・・確かにここ2、3日は少しおかしいのですが、でもそれは精神的なショックが・・・・』
『妹さんがあの時マンションにいた事を隠しているのもその精神的ショックですか?』
刑事は自信満々に畳み掛けた。
『いえ・・・・』
『玄関のカメラには事件の前にマンションに入っていく石川さんの妹さんの姿が写っている。だがそんなことを彼女は一言もいっていない。つまりエレベーターで彼女を襲うふりをしたのがその妹さんということです』
山本にはもはや返す言葉がなかった。

『・・・・ともかく、あまりスケジュールを厳しくしたり、ストレスを過度に与えるようなことは控えるようにしてください。それがあなたがたの仕事だと思いますよ。』
『・・・はい』山本は力なく答えた。
『それでは私はこれで』
『あの・・・・今回の件は公には・・・・』
『しませんよ。とりあえず今回は。ですが、また・・・』

(トントン!)
そのとき、部屋のドアをノックする音がした。
『はい』
山本が返事をすると事務所の女性がドアを開けて、中の二人を見る。
『今は大事な話をしてるから後にしてくれ』
山本は不快そうに言う。
だが、
『あの・・・・』
といって、彼女はそのままそこに立ち止まる。
ただならぬ気配を察して、山本が尋ねる。
『どうした?』
意を決したように彼女が話し始める。
『市井さんが・・・・あの以前うちの事務所にいた市井紗耶香さんが・・・・いなくなったそうです』
『はっ?』山本が意味が分からないというように声をあげる。刑事が驚いた表情を彼女に向ける。
『さきほど、市井さんのお母様から連絡がありまして・・・・昨日から行方不明なんだそうです。それでさっき警察に連絡をしたと・・・・』

山本と刑事は信じられないという顔つきで互いを見た。


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玄関のドアには鍵がかかっていなかった。
矢口は驚く以上に、恐怖を覚えた。
部屋の中でなにか魔物が罠を仕掛けて自分を待っているかのような感覚を覚えた。
開いている鍵。亀井という獲物。そしてそんな獲物を狙う怪物。いや・・・・獲物は亀井ではなく、自分なのかもしれない。

『待って!』
亀井がドアを開けて部屋に入ろうとしたので、矢口はあわてて彼女を止めた。そして、
『おいらが先に入る』
といって、亀井とドアの間に割り込んだ。

『梨華ちゃん!』
矢口は部屋の中に声をかける。しかし当然のように反応はない。
部屋の入り口の明かりはついていた。
そしてリビングへの扉も開け放たれていて、リビングの照明もついている。
まだ薄暗くなりはじめたばかりだ。照明がついていると言うことは、ついさっきまで誰かがいたはずということだ。いや、今もいるのか?どこかに<石川>が隠れているのだろうか?
そして自分と亀井が部屋に入ってくるのを待っているのだろうか。

『おかしいですねぇ・・』
亀井が緊張感のない声をだす。
その一方、矢口のほうは緊張で全身に汗をかいていた。
『注意して・・・いるかもしれない』
『いるって?』
『・・・・犯人よ・・・梨華ちゃんを誘拐しようとした・・・・』
『え・・・そんな・・・』
亀井の声にもやっと緊張感がともる。

矢口は靴を履いたまま部屋に上がる。そしてゆっくりゆっくりと前に進む。
リビングまでには、まず右手に浴室とトイレのある洗面室への扉、そして左側に寝室への扉があり、そのどちらも閉じていた。
矢口はまず洗面室を確認しようと決めた。
洗面室のドアに手をかけて、後ろの亀井を振り向く。
亀井は不安な顔をして玄関に佇んでいる。
矢口は、彼女を一旦護衛のいる階下に下ろすべきかと考えた。しかし、上坂がその気になれば護衛ごと消すこともできるのだ。今は自分と一緒にいるほうがむしろ安全だろう。
矢口は亀井に向かって手招きをした。すると亀井は靴をぬぐか一瞬迷った後、矢口と同じように靴を履いたまま上がってきた。
そして矢口のそばに寄り添って、彼女の腕を手でつかんだ。

これでいい。そして矢口は洗面室の扉を勢いよく押し開けた。
ドアが洗面室に添えつけてある洗濯機にばたんと当たって、大きな音がした。
身構える二人。だが、薄暗い洗面室内には誰もいない。
矢口は洗面室の電気をつけた。洗濯物置き場には、石川の脱いだ服がいくつか入ったままになっている。そんな生活感がすこし矢口の気持ちをやわらげる。
洗面室内に人の気配はまるで感じられない。どこかに誰かが隠れているとはとても思えなかった。矢口は自分のやっていることが少しばかばかしくなってきた。
亀井も同じように感じたのだろう。
『誰もいないですよね・・・きっと』
そう声に出した。
『うん・・・・でも油断はしないで』
矢口はそう言って、一度背後の廊下を確かめたのちに、浴室へと向かう。
浴室の電気をつける。浴室に白色の光がともる。浴室のドアを開ける。誰もいない。
同じようにトイレも確認する。そこも結果は同じ。
『ふぅ・・・』

矢口は次の部屋を調べようと振り返った。
すると、そこにいたはずの亀井がいない。
『亀井っ!!』
とっさに矢口は叫んでしまう。
だが、すぐに亀井ののんびりとした『は〜い』という声が返ってきた。
矢口が廊下にでると、ちょうど亀井が向かいの寝室から出てくるところだった。
『寝室にも誰もいませんよ』
度胸があるのか、それとも事情をよくわかってないだけなのか・・・・まぁこの子はちょっと人と違う感覚の子だからな。
矢口はそんな風に呆れつつも、ちょっとほっとした。

そして遂に、照明ついたリビングへと足を踏み入れる。
雑誌やチラシが散らばった生活観のある部屋。ついさっきまで誰かがいたような感じがある。だが・・・今は誰もいない。やはり、この部屋には誰もいないようだ。
(下の護衛の人が梨華ちゃんを見ていないのだから、やはりリンクアウトしたとしか考えられない。しかし、何のために?そもそも亀井を呼び出したのも何のため?単に予定を変更しただけ?それともまさか亀井は囮だとか・・・・)
矢口の中で様々な考えが交錯するが、考えてもわかるものではなさそうだった。

その時、矢口の中で一つのアイデアがひらめいた。
今なら・・・今なら上坂はこっちの世界にいない可能性の方が高いのではないか。
ならば、今このネットの切断ボタンを押してしまえば全てが解決なのではないだろうか。
矢口は思わずポケットに中に手を滑らせる。その手が四角い装置に触れる。
今なら・・・・。
ボタンを押したい衝動が強烈に襲ってくる。押してしまえばいい。それで終りだ。
だが・・・・もし上坂がこっちの世界にいたとしたら、彼を植物人間にしてしまうことになるかもしれない。

・・・・できない。矢口は首を振って、ポケットから手をだした。それをやったら・・・・人殺しだ。


とりあえず今自分がすべきことはなんだろう。手近に置いてあった雑誌を手に取りくつろぎ始めた亀井をよそに、矢口は考えた。
もし上坂が何らかの理由で今リンクアウトしているとすれば・・・・そうかっ!戻るためには必ず通らなければならない場所がある。そう、おいらの部屋だ。ならば今すぐ自分の部屋に戻るのが今できる一番の策のような気がした。そして一旦現実の世界に戻って、部屋の監視映像も見たほうがいいだろう。
『亀井!帰ろう』
矢口は亀井にそう言った。
『えっ、だってまだ来たばっかりですよ』
ソファーの上の亀井が答えた。
『来たばっかりとかそういう問題じゃないでしょう?梨華ちゃんがいないんだからしょうがないじゃん』
『え〜、でもほら、すぐに帰ってきますよ、きっと』
『だって、下の護衛の人が言ってたでしょ、梨華ちゃんは外には出ていないって』
『あぁそうだ・・・・ん?あれ?じゃあ石川さんは?』
亀井の表情が曇る。
『ん・・・うん・・・それはまぁ・・・』
困ったと矢口は思った。
石川がまた消えたということになれば、下の警察の人達がまた騒ぎ出すことになる。そして矢口もしばらく家に帰れなくなる可能性がある。
だけど今は急いで自分の家に帰りたい。どうする?亀井を言いくるめて何事もなかったように帰るか・・・・いや、言いくるめられるような子じゃない。ならば、亀井をここにおいて自分だけ・・・・

(ピンポーン!)
そのとき、玄関のチャイムが大きな音をたてて鳴った。
『えっ!?』
矢口の心臓が跳ね上がる。
誰だ?もしかして・・・・上坂?
一時弛緩していた緊張感が再び急速な勢いで高まる。
もし上坂ならどうしよう・・・・いや、やることは決まっている。そう、やるしかないんだ。
そんな風に矢口が心の準備をしている一方で、亀井はインターフォンのところへと何でもないようにすたすたと歩いていき、『は〜い』と答えながら通話ボタンを押した。
『ちょっと亀井!』
矢口はあわててインターフォンのところへ駆け寄る。

『あら?』
インターフォンの画面を見て亀井が軽い驚きの声を出す。
『え!?』
矢口は急いでその画面を覗き込む。

そこには一人の娘がぽつんと立って、インターフォンの画面、正確には玄関についているカメラを覗き込んでいた。

『加護!?』
矢口はそのよく見知った娘の姿を見て驚きの声を上げた。



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