(十)
考え過ぎかな…などとこの期に及んで言われても、もうそういう域を超えてしまっている位考え過ぎているんじゃないかなと思っていたが、それを口にするには憚れるだけの真剣さが由里子にはあった。
「昭和七年のことをなんらかの形で里子が知っていたかもしれない…というのも、そういった里子と放庵のつながりがあって…という前提からすれば、と思うわけだ」
「放庵さんは溜め池の側から人食い沼のほとりに居を移したのもリカが放庵さんを監視下におこうという考えがあったのでは…って言ってるけど、これも前提に、おりんから復縁を迫る手紙が放庵さんの留守中にきたのをたまたまいきあわせたリカがそれをよこどりして隠したということからはじまってるんだけど、たまたまだなんて、ちょっと強引な話しでしょ。むしろ、誰か放庵さんの留守に放庵さんのところにいてもおかしくない人がいたんじゃないか…って思ったら、里子…いつも土蔵の中にいると思われていて、他の人があまり注意をしない里子ならって気がしたの。もし、手毬唄のことでつながりがあったのなら…放庵さんと里子なら案外話し相手としても取り合わせが悪くないかなって思ったの。だから、放庵さんは里子を可愛がってたんじゃないかな…。だから亀の湯のそばの人食い沼に移る気になったんじゃないかなって思うの」
「言われているような放庵さんの性格からしたら、リカからの生活費のことがあるだけにそれだけの理由から人食い沼の側へ引越して来たと思うよりは、自分から里子の話し相手くらいはしてやるんだから…くらいの理由があった方が自分を納得させることができるかもしれない…か…」
放蕩三昧の挙げ句落ちぶれたものの、それをそのまま受け入れるにはプライドが高過ぎて偏屈になった老人と、美しく聡明でありながら赤痣という不具のためだけに人との交わりを捨てて自分の世界に閉じ籠ろうとしている若い女、二人の関係を思うとまたしても溜め息をつきたくなった。
由里子もさすがに話し続けて少し疲れたのか、椅子にもたれかかったまま窓外を見つめていて、もう食事どころではなさそうだった。私が冷たくなったコーヒーを飲み干してもう一杯頼むと、由里子も紅茶を頼んだ。
まだ半分近く残ったままの由里子のパスタを下げてもらった代わりにコーヒーと紅茶が来たところで、『悪魔の手毬唄』を開き、もう一度整理をしてみたいと、金田一耕助の推理部分を順に辿りながら由里子の話しを私が簡単に繰り返して、まだ聞かせてもらっていなかった反証に関しては由里子の口から聞いた。
崖崩れのことをリカが知らなかったから…という推理には里子も条件としてはリカと変わらないはずだし、リカはそれでも村へ出かける用事もあったかもしれないが、里子の方は確立的にそんなリカよりは少ないであろう。
里子の態度からリカにはやくから漠然とした疑惑のようなものを感じていた…という部分には、それこそ信じられない話しであって、母親が犯人だとわかり、それを止めさせようという意思表示のためだけにお高祖頭巾をかなぐり捨てて赤痣をさらすだけの無言の訴えだなんて考えられない。むしろ、犯人としてついに泰子殺害を果たして、それまでひた隠しに隠していた赤痣を隠すほどのものではないと思うようになった変化なのではないかと由里子は話した。
「順番だとここで昭和七年の事件の真相に触れてるわけだけど…。ここは?」
「さすがに昭和七年の事件に関しては、あたしもそのまま受け入れるしかないわ…。あまりにもとんでもない話しだとは思うけど…」
由里子はそう軽く笑いながら続けた。
「ここでも金田一耕助は写真を持ち出して恩田幾三と青池源治郎の秘密を暴露してみせるけど、ほとんど話しの進行役と補足的な発言をしているだけで、こうだったのか!って言ってるのは関係者たちなのよね。自分達で話しているなかに金田一耕助が『こうでは?』というと全部納得しちゃうのよ…。そのうえ昭和七年の事件のことをあらましみんなが納得してもう一度昭和三十年の事件の話しに戻ると、『それじゃこれまたみなさんのご意見もうかがって、討論会といきましょう。』だなんて言ってるんだもの…」
「さっきから聞いてると、どうも、この金田一耕助の推理の…披露のやり方が不満でしかたないみたいに聞こえるんだけど…」
由里子は少し黙ったまま私を見つめていたが、
「折角だから、ひととおりお終いまで話してから、そのことは話すわ…」
と言って『悪魔の手毬唄』へ視線を逸らした。
金田一耕助が代筆した手紙については、リカでなくともお幹から里子が聞いたのであれば放庵から取り上げることはできたであろうと言い、『リカは二十三年まえの事件で一人二役で味をしめとるけんな』という本多の大先生の言葉には、
「一人二役をやってたのは源治郎であって、その被害者であったリカが味をしめていたなんてバカバカしい考えだわ」
と吐き出すように洩らした。
十か条の山椒魚のくだりにさしかかると、語調を弱めて、
「ね、木村さん、『山椒魚』って聞いて、何連想する?」
と訊ねてきた。突然のことだったので少し驚きながらも
「…井伏鱒二の『山椒魚』かな…」
と冗談まじりに答えたつもりであったが、由里子はその答えに妙に神妙な顔つきになって、
「…やっぱり木村さんもそれを想像する?…全然違う話しだけど、井伏鱒二の『山椒魚』も岩屋に閉じ込められた山椒魚の話しでしょ…。あれを思い出した時、ちょっと蔵の中に一人でぽつんといる里子のこと考えたら、孤独のなかで増幅される傲慢さっていう意味では、なんか似てるのかな…連想してみたくもなるわよね」
と溜め息を洩らしながらそれを言うのがやっとといった感じで呟いた。
正直に言えば、井伏鱒二の『山椒魚』の細かな内容まで憶えていなかったので、由里子の言う連想までは及ばなかったが、少なくとも単に“とり目”云々だけで納得していないのかな…とは想像することは出来た。
泰子を誘い出した手紙については前に聞いていたので簡単に済ませ、文子を呼び出した件になると、文子を最後に目撃しているというのが里子なのに、誰もその証言を疑ったりしていないことの方が理解できないとすら言い放った。
「なんで誰も里子の証言だけはそのままスンナリ受け入れちゃうんだろ…赤痣の不幸な娘だからっていう同情からなのかな?…もしそうだとしたら、それこそ里子にしてみたら堪らないくらい嫌な同情だったんじゃないかしら…」
私にはその言葉に返す言葉を掛けてやることができず、別の話しをすることで先を促すことしかできなかった。
「…由良の土蔵の影も、…金田一耕助からして笑いながら『リカの芝居でしょう』って言ってるくらいなんだから、これが里子であってもおかしくないってことになるわけか…」
「リカが芝居をするにはお銚子を座敷きに運んでいたり、結構いそがしく働いていたくらいだから、誰かに目撃されないとも限らないけど、里子はとくに誰からも注目されていたわけでもないし、現に、その時間、里子がどこで何をしていたかの記述はないわ」
「というくらいなら、当然泰子殺し、文子殺しの時のアリバイもないんだよね…今さらながらだけど」
「記述的にはね…。なぜか里子だけはどこで何をしていたかが書かれていないのよ…」
「そりゃ、関係者全員のアリバイを全部書いてあってもこれだけの登場人物だもの…いくらページがあっても足りなくなっちゃうだろ…」
「だからって、二つの事件の被害者を最後に目撃したという女なのに、ちょっと杜撰すぎない?」
「…う〜ん。杜撰かどうかはともかく…。なんの記述もないというのは、見ようによっては何かを疑わせるだけの余地を残すのは確かかもしれないけど…」
一体その『何かを疑わせる』というのの『何か』というのが何を指し示しているのか、言っている自分ですらハッキリわかっていないのだが、由里子は妙に納得したように満足気な顔をした。
私は何も自分がわかっていないのにうんざりしながら、『悪魔の手毬唄』の文章を目で追い、ギョッとした。
「…この後が、千恵子のハンドバッグにあったという封じ文のことになるんだけど…。これは一体誰が千恵子のハンドバックに手紙をいれたことになるんだ?千恵子の証言だと、里子が『とてもあわてて、ちがう、ちがう、それわたしに来たんや』ってひったくったって言ってるんだから、里子が入れたことにならないんじゃないか?」
「あら、どうして?」
「自分でわざわざ誘い出す手紙を入れておいて、それを『ちがう、ちがう』って言って奪いとるのはおかしいだろ。里子が犯人なら千恵子のハンドバッグに手紙を入れたのも里子だろ、里子が入れたんじゃないのなら、里子が犯人というのもおかしくならないか?」
「そうかしら?…木村さん、したことない?間違えた手紙とかを先に送っちゃった時、後から『ちがう、ちがう』って否定したこと」 「間違えた手紙?」
「或いは、当初予定していた時間とか場所とかが都合悪くなって、その手紙を見られては困る時とか。単に、最初は別の時間なり場所なりを書いた誘い文を千恵子のハンドバッグにいれたものの、それがダメになったからあわてて中身を見られる前に取り上げただけじゃないかしら…。特に、こんな時でもあるし、その内容が事件と関係ある内容だった場合とかだったら、一度見られたら困るじゃない。だからあわてて取り上げたのよ。…そうでもなかったら、中身を見てもいない里子が、泰子を呼び出した手紙のこととかのことも知らないはずなのに、その手紙が犯人からの手紙だとわかっているかのように取り上げるなんてことができるはずがないもの。仮にリカが犯人で、リカが千恵子のハンドバッグに手紙を入れたのを見たのだとしても、それが呼び出しかどうかなんて中身を千恵子ですら見てないのに、里子にわかるハズがないでしょ。…中身を知っていて取り上げたんなら、中身を書いた本人しか考えられないと思わない?…なのに、なぜか、そういうことが取り沙汰されないまま、身替わりとか犠牲心とかの話しになっちゃうのよね…。これって、里子がああいう哀れな死体で発見されてるということと、リカが犯人ではないかという前提の上で千恵子の想像がそう言わせているだけなのよ」
その里子殺害へ至る由里子の『推理』はさらに陰鬱なものであった。
あるいはそういったハンドバッグでの経緯をどこかで見ていたかして、かねてよりお高祖頭巾を脱ぎ捨ててみたりと行動の異変に不審を抱いていたリカが、あらためて千恵子のすきを見計らって中をたしかめるとそこにはまた呼び出しの手紙があった。これで、里子の犯行を知ったリカは娘の狂行を止めさせようと千恵子にかわって出向いていったが、里子はそこに老婆姿で待ち受けていた。リカの説得にも耳を貸そうともせず、悲観にくれたリカは里子が用意していた凶器である砂をつめた瓶を、里子へと振り降ろしてしまったのではないかというのであった。
「泰子、文子が絞殺であったのにたいして、里子だけが撲殺であるというのは興味深いところよね。…殺すだけならわざわざ文子の殺害現場である葡萄工場から空き瓶をもってくるなんてことをする必要もないわけで、ふたりと同じように絞殺でもよかったんじゃないかしら…。でも、あえて空き瓶に砂をつめるなんて準備をしているところをみると、ただ殺す以外に意味があったのではないかしら…。たとえば、老婆姿で千恵子に自分が泰子と文子を殺害したことを告げたうえでお互いの父親のことを告白して、苦しめた後に殺害しよう…とかね。…ただ、そんな余裕をもったなかで絞殺しようとしても相手がどんな抵抗をするかわからないから、一思いに殺せるように、撲殺に変えた…くらいの理由があってもおかしくないような気がするの…」
由里子はひととおり『推理』を披露し終ったが、暗い表情で、そのつぶらな瞳には薄らと涙らしきものまで浮かべていて、話し終えた満足感といったものはどこにも見受けられなかった。
おおよそ由里子の『推理』とも言える考えはわかったつもりであったが、果たして由里子がなぜこれ程までこのことにこだわっているのかということだけは相変わらずさっぱり理解の外にあった。
「…ね、木村さん、時間はまだ平気だよね?」
「時間?」
時計を見て昼を過ぎていることに気がついて驚いた。
「もう、こんな時間か…。…別に他に用事があるわけじゃないし、今日はこっちで一日過ごせたらと思っていたから、お前に追い帰されるまではいっしょにいるつもりだったけど…」
「じゃ、場所変えよ。店も混んできたから…」
由里子にそう言われて店内を見回してみると、確かにいつのまにか昼時となっていた店内は家族連れなども多くなって賑わっていた。あるいはこれだけ混み始めた近くのテーブルの客のなかには、二人の会話の端々に『殺し』だとか『殺害』などという言葉を耳にして、何事かと訝しんだ人もいたかもしれないな…と思い、ちょっと恥ずかしいような気がした。
化粧室に行ってくるからと席を立とうとする由里子に
「先に車でまってるから…」
と声をかけ、二人分の支払いをすませて表に出た。まだ四月だというのに、初夏を思わせる日射しが眩しかった。
車に乗って、まだ少し早いかな…とも思ったがエアコンをいれて待っていると、しばらくして由里子が店からしなやかな足取りで出て来た。由里子はそのまま助手席に身を落ち着けると
「ちょっといっしょに来てもらいたいとこがあるんだ…」
と、さっきまでの陰鬱気な表情から一転してもどってきた笑顔を見せて意味あり気に言った。
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