竹中英太郎の戦前挿絵について調べて行くなかでぶつかった様々な“疑問”。 |
1. “夢遊病の女”の正体は? | |
(C)金子紫/湯村の杜 竹中英太郎記念館 |
『百怪、我ガ腸ニ入ル』に「江川蘭子(大下宇陀児『新青年』昭和5年)」とのキャプションがついて掲載されているこの挿絵。掲載誌とされる「新青年」を実際にあたってみると、この挿絵は使用されていない。 |
2. “沙羅双二”って誰? |
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“沙羅双樹”ではない。“双二”である。著明な時代小説作家である沙羅双樹(明治38年5月6日〜昭和58年1月20日)なら、名前くらいは認識しているが、挿絵を描いていたことがあるなどという話しはあまり聞かない。 まだ本格的に挿絵画家として活躍を始める前、「家の光」に挿絵を寄稿していた竹中英太郎と共に紙面に挿絵画家として名前が掲載されているのが“沙羅双二”である。 『季刊みづゑ』に掲載された尾崎秀樹による「現代挿絵考 9」から引用すると、
とあり、この文章を見る限りでは、“沙羅双二”という挿絵画家が存在することになる。 |
3. “邦枝完二”はいずこから? |
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『百怪、我ガ腸ニ入ル』巻末の“画譜”には、多くの間違いがあるが、まだその真偽が明確にされていない記載も多い。 【2012.12.12付記】 「なんだ、そんなことだったのか?」
章題の後に「断片的な回想(石井八重子さん・聞書)−房総・大東海岸のお宅にて−」とある。石井漠の夫人の回想だ。 |
4. ゴー・ストップ |
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竹中英太郎の装幀仕事の例として、比較的頻繁に触れられる一つに、貴司山治の「ゴー・ストップ」がある(『百怪、我ガ腸ニ入ル』巻末画譜では昭和6年としてあるが、中央公論社から発行されたのは昭和5年)。
とある。こちらでは昭和5年としてあるので、やはり中央公論社から刊行されたものを指して竹中英太郎装幀と言っているのだと思われる。 【2006.4.24 付記】貴司山治『ゴー・ストップ』の装幀に関しては、竹中英太郎によるモノは無いと思われるとの御教示を頂けたので、竹中労の証言にある“貴司山治の話”の内容に関しての確認はともかく、『ゴー・ストップ』に関しては吉田謙吉装幀ということで決着。今後、竹中英太郎ファンとおっしゃられる方で、装幀目的のみで『ゴー・ストップ』を購入しようかとお考えの方は注意されたし。 |
5. 二つの黄金仮面 |
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昭和6年平凡社から刊行された『江戸川乱歩全集』に付録としてついていた小冊子「探偵趣味」。この第1号の表紙絵は岩田専太郎によるものと一般的には言われている。江戸川乱歩自身の言葉として、「探偵小説四十年」などにもそう記載されており、おそらくはこの「探偵小説四十年」の記載がすべての基になっているのではないだろうか。
当時、自らの最初の全集刊行にあたり、その宣伝などにもいろいろと気を配り、興味と関心をもっていた様子は見受けられる。 |
6. 風雲紅玉陣 |
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『百怪、我ガ腸ニ入ル』に「白龍殺陣」というキャプション付きで掲載されている挿絵が2点あるが、このキャプションは間違いで、この2点の挿絵は「少女畫報」昭和6年1月号に掲載された橋爪丘の鳩の「風雲紅玉陣」に提供された挿絵である。掲載誌の作品末には興味深い文章が掲載されている。
なお、紙面ではこの文章の直ぐ後にこのような一文が続いている。
華宵とあるのは、いうまでもなく当時挿絵業界で少年少女モノの第一人者と言える高畠華宵(1888-1966)のことである。
果たしてこの“突然御病気”というものがどういったものだったのかを知る術は残念ながら無い。 【2006.6.4 付記】「少女畫報」に連載されていた「風雲紅玉陣」の橋爪丘の鳩という作者であるが、この橋爪丘の鳩というのは、詩人でプロレタリア文学なども発表していた橋爪健(1900-1964)のこと。橋爪健名義でも少年少女向けの作品なども発表しているが、なぜかこの作品の連載時に限り橋爪丘の鳩などという筆名を使っていたようである。しかし、この「風雲紅玉陣」も戦後ポプラ社から出版される際には、作者名を橋爪健にしている。 |
以下、検証中随時追加予定
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