今週の荘子(2002.3.11-3.17)
惠子謂荘子曰、
吾有大樹。人謂之樗。
其大本擁腫而不中繩墨、
其小枝卷曲而不中規矩。
立之塗、匠者不顧。
今、子之言、大而無用。
衆所同去也。
荘子曰、
(略)
今、子有大樹、患其無用。
何不樹之於無何有之ク、
廣莫之野、彷徨乎無為其側、
逍遥乎寝臥其下。
不夭斤芹、物無害者。
無所可用、安所困苦哉。
(逍遥遊篇)
惠子、荘子に謂いて曰く、
吾に大樹有り。
人之を樗(ちょ)と謂う。
其の大本は擁腫(ようしょう)して
繩墨(じょうぼく)に中(あた)らず、
其の小枝は卷曲(けんきょく)して
規矩(きく)に中らず。
之を塗(みち)に立つれば、
匠者(しょうしゃ)顧みず。
今、子の言、大(だい)して無用し。
衆の同じく去る所なりと。
荘子曰く、
(略)
今、子に大樹有りて、其の用無きを患う。
何ぞ、之を無何有(くかゆう)のク、
廣莫(こうばく)の野に樹えて、
彷徨として其の側(かたわら)に為す無く、
逍遥として其の下に寝臥(しんが)せざる。
斤芹(きんぷ)に夭せられず、
物に害する者無し。
用う可き所無きも、
安(いずくんぞ)困苦する所あらん。
惠子は荘子に言った。
「うちに大木があって、これを樗といいますが、
幹はこぶだらけで、すみなわが当てられず、
枝は曲がりくねっていて、定規も当てられない
ありさまです。
これを道に立てておいても、
大工は目もくれません。
あなたの話は大きすぎて役立たずです。
誰も耳を貸さないでしょう。」と。
荘子は答えた。
「(略)
お宅に大木があって、役にたたないのが
お悩みの様子。
これを何もない土地、人ひとりいない広野
に植えて、その側でのんびりと何もせずに
いたり、あるいはその下で寝そべって自由な
空間を満喫しようと何故なさらぬか。
こぶだらけで、曲がりくねっているからこそ、
まさかりや斧で命を縮められず、危害を加える
物がいないのです。
役に立たなくても、何で悩むことがありましょうか。」
福永光司氏によると、この話は荘子自身の作ではなく、
後世の人が付け加えたそうである。
荘子のいわゆる「無用の用」の代表的な話のひとつ。
無用と思われるのは、世間の用途にはあてはまらない
からであり、別の見方では、ちゃんと役を果している。
既成の価値体系で無用と思われているものでも、
存在する理由は必ずあるというもの。
相対的な価値にとらわれずに自由な発想で
ものごとを見ていこうというのが、真のメッセージ
であろう。
「無用の用」というと、「重箱の隅を探せば、何かしら
の価値が見つかる」という、消極的かつ矮小的解釈を
する人がいる。 そんなことをいうのは、無用の人だと。
しかし、「無用の用」の意味はずっと深い。
これは認識の問題である。
自然科学の世界では、常識の認識論といってよい。
つまり、自然の成り立ちに関して、「なぜ?」を
持ち込むのが科学である。
成り立ちに関して認識が浅いと、無用のものが無用に
見えてしまう。 無用に見させるのは、既存の科学の
認識であるからである。
それが、自然の仕組みがよくわかってくると、つまり
既成概念を打ち破る革新的な認識が作られると、
無用に見えていたものが、ちゃんと役割を果たして
いたことが分かってくる。
荘子の話は、科学だけでなく、日常世界にも当たり前
に無用と思われるものが、用をなすことが一杯ある
でしょうと、問題提起している。
単に俗の世界で無用でも、超俗の世界では用を為す話
ではない。 同じ俗にいても、見方を変えれば、どんなもの
でも生かせる工夫が行なえるわけである。
環境問題でいえば、ゴミを再利用すれば、資源の問題とか
公害の問題とかがある程度解決されることになる。
短絡的に、「無用」と考えないことである。
注:
☆惠子(けいし)
惠施のことで、荘子の友人で、荘子のなかによく出てくる。
梁の惠王に仕えた論理学者であり政治家。
☆今、子之言、大而無用
荘子がこれまで(惠子との問答の中で)に述べてきた
喩えが、あまりにも大げさすぎて現実の世界に適用できない
と苦言を云っている。
☆無何有之ク
何にもない土地、世界
記:有無相生