今週の荘子(2001.5.20-5.26)
 

子游曰。
地籟則衆竅是已。人籟則比竹是已。
敢問天籟。
子■曰。
夫吹萬不同。而使其自己也。
咸其自取。怒者其誰邪。
(斎物論篇)

子游曰わく、
地籟は則ち衆竅(しゅうきょう)是れのみ。
人籟は則ち比竹是れのみ。
敢えて天籟を問うと。
子■(しき)曰わく、
夫れ萬を吹きて同じからず、
其をして己に自(よ)らしむなり。
咸(みな)其れ自ら取る。
怒する者は其れ誰ぞやと。
 

弟子(子游)が先生(南郭子■)に問うた。
「地籟は、いろいろな穴に風が吹き込んで鳴る音で、
人籟は、楽器を奏でる音であるとして、
天籟とは一体なんですか。」と。
先生は答えていった。
「いろいろな物を吹いて違った音色を出させているが、
それはそれぞれ自らの在り方(穴の大きさ、形)にまかせている。
すべて鳴るもの自らの取った結果である。
激しく鳴るのは誰がさせているのか。」と。
 

古代中国の人にとって、風は【大塊の噫気(たいかいのあいき)】、
つまり大地のあくびであった。
強風が吹けば、木々がざわめき、巨木の穴は激しく音を立てる。
これらの大地が奏でる音楽を地籟という。
ビール瓶の口に口をつけ、息を吹き込むとぼーっという音が出る。
水を中に入れるに従って、音が高くなっていく。
フルートとか尺八になると、メロディを奏でることができる。
これが人籟である。
では、天籟とは何か?
天(創造主)の奏でる音楽ではない。
万物が自らに具わった性質を響きとして奏でる音楽を
自らの響きをして聞くことである。
穴の形状や大きさによって奏でる音楽は皆違う。
風の強さや向きによっても変わってくる。
しかし、各々があるがままの在り方で奏でる響きであること、
己が自然と現れる響きである意味で、一つの音楽となる。
鳴らされているのではなく、自然の調和のなかで奏でているのである。
風が止めば、万物は静寂≪死≫に戻る。
生かされているのは偶然的な運命である。
生きている間は、自然の調和のなかであるがままに音楽を奏でていたい。

記:有無相生